参預会議の崩壊と討幕派の形成
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「公武合体」の記事における「参預会議の崩壊と討幕派の形成」の解説
参預会議(1864年(文久4年)1月 - 3月)は、薩摩藩の排除を狙った一橋慶喜により短期間で解体させられ、雄藩の参加を伴う「公武合体」の機会は失われた 。4月、参内した将軍家茂は、朝廷より諸政を「一切御委任」する旨の勅書を与えられ、幕府はその勅書を全国に布達した。禁裏御守衛総督に転じ、天皇の信任を得た慶喜は禁門の変(同年7月)の主力であった会津藩、桑名藩とともに朝廷の掌握に成功し(一会桑政権)、ここにあくまで幕府を中心とした形での「公武合体」が実現した。 朝廷に手掛かりを失いつつあった薩摩藩は、破約攘夷論から再転換した長州藩に接近、薩長同盟を締結した(1866年(慶応2年))。1866年(慶応2年)末に第15代将軍に就任した徳川慶喜に対し、薩摩藩は翌年5月に参預会議の再現となる四侯会議(島津久光・山内豊信・伊達宗城・松平慶永)の招集を図るが、慶喜の政治力に対抗することができず、結局これも短期間で崩壊に至った。朝廷改革・幕政改革の展望を失った薩摩藩は、長州藩とともに武力討幕を決意する。 一方、越前藩や土佐藩は幕府を前提とした公武合体路線の行き詰まりから、内戦を避けて朝廷の下での諸侯会同による「公議」の実現を目指した(公議政体派)。慶喜は土佐藩の主張を容れて大政奉還を行い、大名連合政権(諸侯会議)の樹立による徳川宗家の実権確保を目指す。
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