朝廷の掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 01:37 UTC 版)
この頃、実美は近衛忠房に対し、「(江戸のある武蔵国は)昔は野でしたから、また『武蔵野』となってもよいでしょう。」と放言し、近衛の怒りを買っている。また薩摩藩や青蓮院宮尊融入道親王に不満を言い募るなどし、両者の不信を買った。実美は武市半平太の土佐勤王党によって土佐藩をまとめ、長州藩とともに薩摩藩に圧力を掛けるべく動いていた。当時、大久保利通は「長士の暴説に酔った」と評している。 文久3年(1863年)正月23日、親薩摩派の関白近衛忠煕は実美らの攻撃に耐えかねて辞職し、長州藩士を多く出入りさせていたため「長州関白」と呼ばれる鷹司輔煕が次の関白となった。2月20日には学習院で学ぶ公家たちに、草莽の志士が時事を顕現することが許されるようになり、公家たちが尊攘派の影響をさらに強く受けるようになった。2月22日には尊攘派公家の押し上げにより、将軍後見職の一橋慶喜に攘夷期限の奏上を求めることとなった。この交渉役に選ばれた実美は、慶喜を激しく攻め立て、4月中旬を攘夷期限とする言質をとった。 鷹司関白は高齢で自信に欠けるところもあったために、実美ら尊攘派公家に抵抗することができず、実美は「関白殿下ですら時に屈従する」といわれる程の権勢を誇った。この状況を憂いた青蓮院宮は山内容堂に実美の説得を依頼したが、効果はなかった。当時は尊攘派志士の活動が過激化しており、実美の師だった池内大学ですら殺害されるほどであった。実美は容堂に対し、志士たちが強く攘夷を迫る状況を説明し、「予が身の上をも推察せられたし」と訴えている。2月21日に実美は議奏に任ぜられ、病気を理由に辞退したい旨を述べたが許されなかった。 3月4日には将軍家茂が上洛し、実美ら尊攘派は圧迫を強めた。3月11日には上賀茂神社・下鴨神社への攘夷祈願の行幸、4月11日には石清水八幡宮への行幸が行われ、攘夷を迫る将軍への圧力となった。石清水行幸の当日、孝明天皇はめまいのために延期を求めたが、実美は許さず、無理に面会を迫って仮病かどうかを問いただしたという。ついに5月10日を持っての攘夷決行を約束させ、その当日には孝明天皇に「焦土と化しても開港しない」という勅を出させた。島津久光・松平春嶽・山内容堂といった公武合体派は京を去り、長州藩と尊攘派によって京都はほとんど掌握された。しかしこの状況には孝明天皇ですら不快感を示すようになり、尊攘派公家を「暴論の堂上」と呼ぶようになった。
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