朝廷の分裂
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壬申の乱の際、大海人皇子を中心とする飛鳥朝廷と大友皇子(弘文天皇)を中心とする近江朝廷とが対立した。この内乱では飛鳥朝廷側が勝利し、大海人皇子は天武天皇として即位した。 また、建武の新政ののち、朝廷は後醍醐天皇を奉じる大覚寺統の南朝(吉野朝廷)と、持明院統に属する光明天皇を擁して京都に所在した北朝とに分かれて対立した。ここでは、朝廷が2つに分立したことから、この時代を「南北朝時代」と呼んでいる。 さらに、薬子の変における嵯峨天皇と平城上皇の関係、また治承・寿永の乱終末期における安徳天皇と後鳥羽天皇の関係など、一君万民を建前とする朝廷からすれば異例の事態といえる。
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朝廷の分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 09:00 UTC 版)
7月、司馬越は右衛将軍陳眕・殿中中郎逯苞・成輔・司馬乂の旧将上官巳らと共に司馬穎討伐を掲げて決起すると、恵帝を奉じて共に鄴へ向けて軍を発した。司馬顒はこれを聞くと、張方に2万の兵を与えて鄴を救援させた。だが、張方が到着する前に司馬穎配下の石超は皇帝軍を撃破し、恵帝の身柄を確保した。司馬顒は恵帝が鄴城に入ったと知ると、張方に洛陽占拠を命じた。洛陽を守る上官巳と苗願は張方を阻んだが、張方はこれを破って洛陽城内に入った。 8月、都督幽州諸軍事王浚は東嬴公司馬騰と連携を取り合い、司馬穎討伐を掲げて決起した。司馬穎は大いに恐れ、鄴を放棄すると恵帝を連れて洛陽へ逃走した。張方は兵を派遣して司馬穎一行を迎え入れた。 11月、張方は恵帝と司馬穎を引き連れて長安への遷都を強行した。司馬顒は官属や歩騎三万を率いて長安を出て、灞上において一行を出迎えた。司馬顒は恵帝に拝礼しようとしたが、恵帝は車から下りてそれを止めさせた。恵帝が長安に入ると、司馬顒府が行宮(皇帝の住まう場所)となり、司馬顒は百官を選んで配置し、秦州を定州と改めた。だが、洛陽では尚書僕射荀藩・司隷校尉劉暾・河南尹周馥が留まって皇帝の代わって政治を行ったので、これにより政治機能は二つに分裂し、洛陽朝廷は「東台」と呼ばれ、長安朝廷は「西台」と呼ばれるようになった。 12月、司馬顒は皇太弟司馬穎を廃し、豫章王司馬熾(後の懐帝)を新たに皇太弟に立てた。また、司馬顒は戦禍を収める為に司馬越との和解を望み、彼を太傅として長安に招聘したが、司馬越はこれを受けなかった。暫くして詔が下り、司馬顒は都督中外諸軍事に任じられた。 305年、司馬顒配下の游楷らが冀城の皇甫重を攻撃してから3年目に入ったが、未だに城を落とす事は出来なかった。司馬顒は御史を派遣して皇甫重に投降を勧めたが、皇甫重は拒絶した。当時、冀城内の人々は司馬乂と皇甫商が既に殺されたことを知らなかったが、御史がこの事を告げると、人々は皇甫重を殺して司馬顒に降った。馮翊太守張輔が代わって秦州刺史となった。
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