朝廷における村国氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/23 16:41 UTC 版)
村国氏は、大海人皇子(天武天皇)に仕えた村国男依によって『日本書紀』に登場する。壬申の年(672年)の6月に、男依は大海人皇子の挙兵命令を美濃国に伝達する使者となった。美濃国出身であることが考慮されたと思われる。7月には主戦線となった近江方面の軍の中心的指揮官として活躍した。男依は壬申の乱の後、封戸を与えられた。死後には外小紫の冠位を贈られ、子の村国志我麻呂が功田を与えられた。最大の功労者に対するものとしては小さく見えるが、地方豪族出身者に対しては大きな優遇であった。 8世紀前半の村国氏は、志我麻呂が従五位上、子虫が外従五位下を極位とし、外位ながらかろうじて五位に届く程度の中・下級貴族になった。 藤原仲麻呂の全盛期には、男依の孫村国島主が初め仲麻呂に仕えたことから、一族が仲麻呂の引き立てを受けた。天平宝字8年(764年)の藤原仲麻呂の乱の直前には、島主が美濃少掾、村国子老が能登守、村国虫麻呂が越前介であった。この配置は、近江国を軸に東国と北国の軍事動員をもくろんだ仲麻呂の計画に対応したものと思われる。だが、仲麻呂が軍を興すことに失敗して敗死したため、計画は不発に終わった。島主は不破関を固めに来た使者に殺され、他の二人も国司の任を解かれた。後に朝廷は村国島主に罪がなかったと認めた。一度は失脚した子老と虫麻呂は以前と同じ位階の官人として復帰を果たした。しかしながら子孫に同じ地位を引き継ぐことはできなかった。 ずっと後に、後宮に勤務した村国数子が貞観17年(875年)に外従五位下になったのが五位に達した最後の村国氏で、その後は正六位上の村国業世とその子村国春沢の名が『日本三代実録』仁和元年(885年)4月条に見える。
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