朝廷と新羅・高麗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 23:08 UTC 版)
統一国家として体制を整えた日本と新羅は、互いの地位をめぐって対立する。遣唐使では、新羅使と外交席次をめぐって争った。藤原清河を大使とする遣唐使の際、唐の大明宮含元殿にて玄宗の拝謁をする席上で、東畔の第一がチベットの吐蕃、第二が日本で、西側の第一が新羅、第二がイスラム帝国を指す大食であった。副使である大伴古麻呂が、新羅は日本の朝貢国であるのに日本が下位であるのを不服として抗議し、唐の将軍呉懐実は古麻呂が中々引く気配がないことから日本を第一の席に変更した。この翌年、小野田守が遣新羅使として派遣されたが、新羅の対応を不服として任務を果たさず帰国する。 唐で安史の乱が起きたという情報が日本にもたらされると、藤原仲麻呂は大宰府をはじめ諸国の防備の強化を命じる。新羅使の金貞巻が日本を来訪した際に、大宰府に派遣された藤原朝狩が貞巻を尋問したところ、貞巻は国書を持参せず、17階中11階と下級官吏であることが判明した。日本は貞巻を賓待に値せずと追い返して、新羅の外交を非礼として新羅遠征の機運が高まった。朝廷は武蔵国・美濃国両国の少年20人に新羅語を収得させるとともに東海道、南海道、西海道に節度使を設置した。そして新羅征討計画が立てられるが、後の孝謙上皇と遠征の主導者である仲麻呂との不和により実行されなかった。そして紀三津を最後として遣新羅使を停止し、日本は新羅との国交を断絶した。国交がなくなったために外交使節による管理貿易も停止されたが、これによって日本と新羅の私貿易は増加した。 9世紀中頃になると、新羅は内紛で政情が不安定となる。統制がゆるんで新羅人が九州や対馬で海賊行為や沿岸の襲撃を行い、新羅の入寇として日本は対策に追われた。断交後も新羅商人の入国・貿易を認めていた朝廷も、貿易を口実に日本の政情をうかがう新羅人の存在を知り、藤原衛の奏上に基づいて、商人以外の新羅人の入国を禁止した。この時期には国内で応天門の変が起きており、日本国内の政権抗争と同時期に入寇などの対外的緊張が起きたために新羅を排斥する傾向が生み出された。新羅の弱体化によって朝鮮半島は三国が並び立つ後三国時代となり、混乱は続いた。 後三国時代から新羅が滅んだのちに、高麗が半島を統一するが、北方の異民族である契丹や金の侵入と各地の豪族の内紛が続いた。高麗の南原府の咸吉兢が対馬に漂着し、次には金海府の李純達が大宰府に到着した。高麗使が日本に入朝して国交を求めたが、朝廷は朝貢以外を認めないとして拒絶した。このために高麗や女真は日本沿岸を襲撃して、長徳の入寇や刀伊の入寇が起きた。高麗は両班制度で優遇された文人と、蔑視された武人が対立して、武人が国王に代わって政治を主導する武臣政権が成立する。武臣政権によって高麗王家が権力を失った状態は、モンゴル帝国の攻撃まで続く(後述)。政情が不安定な中で、高麗は仏教を国家制度に組み込み、仏教僧や寺院は税や兵役を免除された。
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