長徳の入寇
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長徳三年(997年)、高麗人が、対馬、肥前、壱岐、肥後、薩摩、大隅など九州全域を襲う。民家が焼かれ、財産を収奪し、男女300名がさらわれた。これは南蛮の入寇ともいわれ、奄美島人も賊に参加していたといわれる。 『百練抄』にはすべて「高麗国人」とあるが、『紀略』は南蛮の賊、奄美島人という『小右記』にみえる報告書の説を採って統一している。現地、史記のそれぞれに混同があると見られる。 同年11月に政府は南蛮の討伐を、翌9月には貴駕島に命じて南蛮の捕縛を求めた。この貴駕島は近年律令式建物遺構が発見された奄美・喜界島と推定されている。南海の法螺貝、夜光貝、硫黄などは日本の重要な交易物であり、薩摩が被害地に加わっていることから、薩摩に出入りの多い南蛮以外に考え付かなかったのだろうと推測されている。 被害の全容が筑前筑後薩摩壱岐対馬、と報告されているところから見ても奄美島人の単独行為とは思われず、数百人の拉致も前例がない。寛平の韓寇と酷似しているほか、長保3年(1001年)にも高麗人の海賊行為が見られる。 参議藤原実資の「小右記」当該記事の頭書(見出し)に高麗国の賊、としていることについて、後に全て高麗の所業と判明したためにこのような頭書が書かれた、とする説がある一方、歴史作家の永井路子は、陰険な性質で反道長派の実資が、報告を受けたときの道長たちのあわてぶりを克明に記していることから、そのことへの当てこすりとしてわざと「高麗の賊」との見出しをつけた(たかが奄美の賊に攻められた程度でなんとみっともない、という皮肉)、という見解を示している。藤原行成の「権記」の該当部分ではかなり深刻な事態であった様子が記されており、蔵人頭の行成と参議の実資ではかなり異なる受取り方をしている。 なお、女真による刀伊の入寇の翌年、1020年(寛仁4年)12月には再び薩摩国が襲撃され人民が拐われており、南蛮の賊徒によると見られている(『左經記』)
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