長徳の入寇とは? わかりやすく解説

長徳の入寇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 13:20 UTC 版)

新羅の入寇」の記事における「長徳の入寇」の解説

長徳三年997年)、高麗人が、対馬肥前壱岐肥後薩摩大隅など九州全域を襲う。民家焼かれ財産収奪し、男女300名がさらわれた。これは南蛮入寇ともいわれ、奄美島人も賊に参加していたといわれる。 『百練抄』にはすべて「高麗国人」とあるが、『紀略』は南蛮の賊、奄美島人という『小右記にみえる報告書の説を採って統一している。現地史記それぞれに混同があると見られる同年11月政府南蛮討伐を、翌9月には貴駕島命じて南蛮捕縛求めた。この貴駕島近年律令建物遺構発見され奄美喜界島推定されている。南海法螺貝夜光貝硫黄などは日本重要な交易物であり、薩摩被害地加わっていることから、薩摩出入りの多い南蛮以外に考え付かなかったのだろうと推測されている。 被害全容筑前筑後薩摩壱岐対馬、と報告されているところから見て奄美島人単独行為とは思われず、数百人の拉致前例がない。寛平の韓寇酷似しているほか、長保3年1001年)にも高麗人海賊行為見られる参議藤原実資の「小右記当該記事頭書見出し)に高麗国の賊、としていることについて、後に全て高麗所業判明したためにこのような頭書書かれた、とする説がある一方歴史作家永井路子は、陰険な性質反道長派の実資が、報告受けたときの道長たちのあわてぶりを克明に記していることから、そのことへの当てこすりとしてわざと「高麗の賊」との見出しをつけた(たかが奄美の賊に攻められ程度でなんとみっともない、という皮肉)、という見解示している。藤原行成の「権記」の該当部分ではかなり深刻な事態であった様子記されており、蔵人頭行成参議の実資ではかなり異な受取り方をしている。 なお、女真による刀伊の入寇翌年1020年寛仁4年12月には再び薩摩国襲撃され人民が拐われており、南蛮賊徒によると見られている(『左經記』)

※この「長徳の入寇」の解説は、「新羅の入寇」の解説の一部です。
「長徳の入寇」を含む「新羅の入寇」の記事については、「新羅の入寇」の概要を参照ください。

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