寛平の韓寇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 13:20 UTC 版)
『日本紀略』『扶桑略記』寛平5年(893年)および六年(894年)の条にみえる熊本、長崎、壱岐、対馬にかけての入寇とその征伐の記録。 貞観15年(873年)、武将でもある小野春風が対馬守に赴任、政府に食料袋1000枚・保呂(矢避けのマント)1000領を申請して防備の拡充を行っている。 寛平5年(893年)5月11日大宰府は新羅の賊を発見。「新羅の賊、肥後国飽田郡に於いて人宅を焼亡す。又た、肥前国松浦郡に於いて逃げ去る」。 翌寛平6年(894年)4月、対馬島を襲ったとの報せを受ける。沿岸国に警固を命じ、この知らせを受けた朝廷は、政治の中枢の人間である参議の藤原国経を大宰権帥として派遣するなどの対策を定めたが、賊は逃げていった。この間遣唐使が定められたが、一説に唐の関与を窺うためであったともいう。 寛平6年(894年)、唐人も交えた新羅の船大小100艘に乗った2500人にのぼる新羅の賊の大軍が襲来し、対馬に侵攻を始めた。 9月5日の朝、45艘でやってきた賊徒に対し、武将としての経験があり対馬守に配されていた文屋善友は郡司士卒を率いて、誘い込みの上で弩を構えた数百の軍勢で迎え撃った。雨のように射られ逃げていく賊を追撃し、220人を射殺した。賊は計、300名を討ち取った。また、船11、太刀50、桙1000、弓胡(やなぐい)各110、盾312にものぼる莫大な兵器を奪い、賊ひとりを生け捕った。 捕虜の証言ではこれは民間海賊による略奪ではなく、新羅政府による襲撃略奪であった。捕虜曰く、新羅は不作で餓えに苦しみ、倉も尽きて王城も例外ではなく、「王、仰せて、穀絹を取らんが為に帆を飛ばして参り来たる」という。その全容は大小の船100艘、乗員2500、逃げ帰った将軍はなお3人いて、特に1人の「唐人」が強大である、と証言した。朝鮮側の資料である『三国史記』889年の記事にも、国内の不作と重税によって、反乱が起こったとあり、捕虜の虚言ではなく、反乱をさけて、国外に手を出したとみられる。 同年9月19日、大宰府の飛駅の使が撃退の成功を伝え、遣唐使も中止された(翌年9月にも壱岐島の官舎が賊のため全焼したことを伝えているが、これはおそらく本年度のこととみられる)。 翌年の寛平7年(895年)にも、新羅の賊が壱岐を襲撃し、官舎が焼かれた。
※この「寛平の韓寇」の解説は、「新羅の入寇」の解説の一部です。
「寛平の韓寇」を含む「新羅の入寇」の記事については、「新羅の入寇」の概要を参照ください。
- 寛平の韓寇のページへのリンク