寛容策と貴族の不満
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/13 01:06 UTC 版)
「ジャラールッディーン・ハルジー」の記事における「寛容策と貴族の不満」の解説
一時期トゥグルク朝に仕えた旅行家イブン・バットゥータはジャラールッディーンの温厚な性格を称賛し、彼の施策について言及される時にも、しばしば寛容性が特徴として挙げられる。非支配者層、貴族の両方からの支持を得るために、彼は反乱者や罪人に対して慈悲深い態度をとり、流血を極力避けようと試みたのである。 即位の2年目にバルバンの甥マリク・チャジジューがヒンドゥー教徒を率いて反乱を起こす事件が起き、反乱軍はハルジー朝軍によって破られ、反乱の指導者たちは捕らえられた。ジャラールッディーンは反徒を処刑する代わりに彼らに最上級の待遇を与え、マリク・チャジジューをパンジャーブ地方に移送した。 1292年にフレグの孫アブドゥッラーが率いる150000のモンゴル軍を国境付近で撃退した後、捕虜とした約4000人のモンゴル人を処刑せずにイスラム教に改宗させ、デリー郊外の村に居住させた。 デリー周辺に出没する盗賊を捕らえた際には、1000人にも上る盗賊をベンガル地方まで運び、罪人からの更生とデリーに帰還しないことを条件として彼らを釈放した。しかし、貴族たちは彼を盗賊をベンガルに追放しただけで処罰を与えることができなかった臆病者と軽蔑し、甥で女婿でもあるアラー・ウッディーン・ハルジーは政策に不満を抱く彼らの支持を集めるため、中部インドへの軍事遠征を志願した。 アラー・ウッディーンが率いる軍隊が中部インドへ派遣され、彼らは1296年にはヤーダヴァ朝の首都デーヴァギリ(現在のダウラターバード)を占領する戦果を挙げた。アラー・ウッディーンは慣習に反してデーヴァギリで得た戦利品を彼に献上せず独占し、デリーへの出頭命令を拒否した。ジャラールッディーンは側近たちの警告を容れずに数人の従者だけを連れてアラー・ウッディーンの元へ赴き、ハルジー朝・トゥグルク朝に出仕した歴史家バラニーの言うところでは「実の子に示すかのような愛情」をもってアラー・ウッディーンに接したが、アラー・ウッディーンの部下たちによって斬殺された。
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