寛容の理論、ポリティークとは? わかりやすく解説

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寛容の理論、ポリティーク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)

ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「寛容の理論、ポリティーク」の解説

ポリティーク」および「主権#主権概念の歴史」も参照 抵抗理論現れる一方で国家重視し宗教よりも世俗秩序優先させる言い換えれば宗教上の寛容によって内戦終結させるポリティーク」 (Politique) と呼ぶ勢力現れた。王国統一のためには新旧教徒教理超えて市民として平和的に共存すべきだとするもので、政教分離土台となる考え方のひとつである。ポリティーク支持者官僚層やブルジョワジー多く宗派争いによる政治混乱避けたポリティーク代表的論者ジャン・ボダンであったボダンサン・バルテルミの虐殺後に著した国家論六編』(1576年)において、国家を「多く家族とそれらの間で共通の事柄との主権権力伴った正し統治」と定義している。ボダンによれば家族家父長のもとに統治され、さらに家族相互武力抗争の結果勝った者が主権者となり、勝利者に従っていたもの国民になり、負けた者は奴隷になる。ここでの「国民」 (citoyen) とは、他人主権依存する自由な臣民」 (sujet) である。ボダン中世的な国王大権発展させ、主権概念定式化した。この主権とは「見えざる主権」であり、国家支配-被支配の関係で捉えた際に支配者側が持つ絶対的な権限であり、国家にあっては国王にのみ固有ののであるボダン宗教戦争対す反省から、「家族においても国家においても主権者はただ1人なければならない」とし、これに反すいかなる説も「暴君による悪政にも劣る放埓アナーキー」の状態を招くとして、これを断罪した。ボダンによれば国家絶対的な権力主権」であり、「主権による統治国家」なのであって主権国家そのもの分かちがたく結びついている。すなわち、伝統的な封建制従来身分制社会では国王末端被支配者である人民との間に、大貴族群小領主のように中間権力存在したが、ボダンはここに主権概念設定することによって中間権力排除し支配者被支配者二者関係で国家定義しなおしたのである。 同じころ、『エセー』の著者モラリストミシェル・ド・モンテーニュ穏健派として新旧教派融和努め、「良心の自由」を擁護している。 信仰的にはカトリックとどまりつつもローマ教皇から一定の距離を置くガリカニスムフランス教会自立主義)を奉じる人々多くも、ポリティーク潮流加わった教皇皇帝に対してフランス独立掲げ国内にあっては神から直接権限委託され存在として王権の強化図ろうとするこのグループが、アンリ4世周囲国政主流を担うことになる。ヨーロッパ国際政治焦点であったユグノー戦争は、王国分裂の危機のなかで主権国家論理明確なかたちで立ち上げたフランスにあっては、それが絶対王政というかたちとなって次代展開していくのである

※この「寛容の理論、ポリティーク」の解説は、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の解説の一部です。
「寛容の理論、ポリティーク」を含む「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事については、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の概要を参照ください。

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