寛容の理論、ポリティーク
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「寛容の理論、ポリティーク」の解説
「ポリティーク」および「主権#主権概念の歴史」も参照 抵抗理論が現れる一方で国家を重視し、宗教よりも世俗の秩序を優先させる、言い換えれば宗教上の寛容によって内戦を終結させる「ポリティーク」 (Politique) と呼ぶ勢力が現れた。王国の統一のためには新旧両教徒は教理を超えて市民として平和的に共存すべきだとするもので、政教分離の土台となる考え方のひとつである。ポリティークの支持者は官僚層やブルジョワジーに多く、宗派の争いによる政治の混乱を避けた。 ポリティークの代表的論者はジャン・ボダンであった。ボダンはサン・バルテルミの虐殺後に著した『国家論六編』(1576年)において、国家を「多くの家族とそれらの間で共通の事柄との主権的権力を伴った正しい統治」と定義している。ボダンによれば、家族は家父長のもとに統治され、さらに家族相互の武力抗争の結果、勝った者が主権者となり、勝利者に従っていたものが国民になり、負けた者は奴隷になる。ここでの「国民」 (citoyen) とは、他人の主権に依存するが自由な「臣民」 (sujet) である。ボダンは中世的な国王大権を発展させ、主権概念を定式化した。この主権とは「見えざる主権」であり、国家を支配-被支配の関係で捉えた際に支配者側が持つ絶対的な権限であり、国家にあっては国王にのみ固有のものである。ボダンは宗教戦争に対する反省から、「家族においても国家においても主権者はただ1人でなければならない」とし、これに反するいかなる説も「暴君による悪政にも劣る放埓なアナーキー」の状態を招くとして、これを断罪した。ボダンによれば「国家の絶対的な権力が主権」であり、「主権による統治が国家」なのであって主権は国家そのものと分かちがたく結びついている。すなわち、伝統的な封建制や従来の身分制社会では国王と末端の被支配者である人民との間に、大貴族や群小の領主のように中間権力が存在したが、ボダンはここに主権概念を設定することによって中間権力を排除し、支配者と被支配者の二者関係で国家を定義しなおしたのである。 同じころ、『エセー』の著者でモラリストのミシェル・ド・モンテーニュは穏健派として新旧両教派の融和に努め、「良心の自由」を擁護している。 信仰的にはカトリックにとどまりつつもローマ教皇から一定の距離を置くガリカニスム(フランス教会自立主義)を奉じる人々の多くも、ポリティークの潮流に加わった。教皇や皇帝に対してはフランスの独立を掲げ、国内にあっては神から直接権限を委託された存在として王権の強化を図ろうとするこのグループが、アンリ4世の周囲で国政の主流を担うことになる。ヨーロッパ国際政治の焦点であったユグノー戦争は、王国分裂の危機のなかで主権国家の論理を明確なかたちで立ち上げた。フランスにあっては、それが絶対王政というかたちとなって次代に展開していくのである。
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