寛容思想の展開
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「寛容思想の展開」の解説
近世ヨーロッパでは宗教改革によって教会の多元化が進行し、相次ぐ宗教戦争への反省のなかから寛容の思想が広がっていった。「国際法の父」と称されたフーゴー・グローティウスは人類最初の契約なるものの存在を想定し、その契約によって人間は自然状態を放棄したものとみなした。「自然権はまずもって人間のもつ社会性に由来し、たとえ神が存在しなくても自然権は価値を有している」と唱えるグローティウスの考えは、ヴェストファーレン条約調印に向けて大きな影響力をもった。 清教徒革命期にフランスに亡命したイングランドのトマス・ホッブズは機械論的世界観の先駆的哲学者の一人であり、人工的国家論と社会契約説を唱えた。ホッブズによれば、人間は自然状態にあっては利己心と自己防衛の本能から「万人の万人に対する闘争」というべき戦争状態に陥り、そこにおける相互の恐怖心から免れるために人為的ではあるが制限されることのない権力を君主に与えた。主著『リヴァイアサン』に示されたこの思想は結果的に絶対主義を擁護することにつながったが、「人間の生存」はすべての義務に先行する自然権であると説いて王権神授説を明確に否定し、ロックやルソーにつらなる社会契約説の嚆矢として大きな意味をもっている。キリスト教の分裂とその結果として生じた多様な意見は、世俗権力と宗教権力の分裂に終止符を打ったのである。 オランダのバールーフ・デ・スピノザは「思想の自由」を称賛し、自著『神学・政治論(英語版)』において「宗教的信仰実践と敬虔さの外的形状は、平和と国家の有用性—に基づき定められる」と主張した。同書ではまた、聖書が歴史的に成立した文書である以上、その解釈も歴史的になされるべきであるという考えにもとづいて聖書解釈をおこない、近代聖書学の成立に道をひらいた。スピノザはユダヤ人共同体から追放されたが、無神論者の疑いをかけられながらも思索を続けられたのもオランダならではのことであった。ただし、『神学・政治論』は1670年に禁書処分にされ、主著『エチカ』も生前には出版されなかった。 ドイツでは、ザミュエル・フォン・プーフェンドルフがグローティウスやホッブズの影響を受けた世俗的自然法論を唱えたが、プーフェンドルフは自然状態については完全な闘争状態ではなく家族結合のような社会関係を想定した。プーフェンドルフに影響を受けたクリスティアン・トマジウスは多数の著作を著してライプツィヒ大学では自然法をドイツ語で講じたため、後世クリスティアン・ヴォルフと並んで「ドイツ啓蒙主義の父」と称された。ライプツィヒを離れたトマジウスは、プロイセン公フリードリヒ(プロイセン王フリードリヒ1世)によって領内のハレに大学を設立するよう命じられた。こうして1694年に創設されたハレ大学は教派を越えた学問研究の中心となり、ドイツ啓蒙主義の拠点となった。ルター派のフィリップ・シュペーナーらは硬直化した教会を内部から刷新するドイツ敬虔主義の運動を開始していたが、シュペーナーは多くの敬虔主義者たちをハレ大学に集めたため、ここでは初期啓蒙哲学と敬虔主義の合流がみられた。敬虔主義(ピエティスム)とは特定の教理を遵守することではなく、個人の敬虔な内面的心情に信仰の本質をみるという立場であり、民衆教育や慈善活動にきわめて熱心に取り組んだ。 フーゴー・グローティウス(1583年-1645年) トマス・ホッブズ(1588年-1679年) バールーフ・デ・スピノザ(1632年-1677年) ザミュエル・フォン・プーフェンドルフ(1632年-1694年) フィリップ・シュペーナー(1635年-1705年) クリスティアン・トマジウス(1655年-1728年)
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