太宰府出先としての喜界島とは? わかりやすく解説

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太宰府出先としての喜界島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:00 UTC 版)

奄美群島の歴史」の記事における「太宰府出先としての喜界島」の解説

喜界島奄美大島とは多少異な歴史がある。中世琉球王国による征服大島1447年喜界島1466年である。 10世紀頃、日宋貿易絡んで九州太宰府受領などを通じ貢祖品の徴収強化した折、同世紀末997年長徳3年)に九州一円長徳の入寇新羅の入寇の一)があり、対馬肥前壱岐肥後薩摩大隅など九州広範囲にわたり襲撃を受け男女300名がさらわれたとある。 被害広範囲のため、高麗国のみならず南蛮入寇として奄美も賊に参加していたといわれる伝記でも『日本紀略』『小右記』『百練抄』にはすべて「高麗国人」とあるが、『紀略』は「南蛮の賊、奄美島人」という『小右記にみえる報告書の説を採って統一している。当時現地でも混同されていた可能性もある。いずれにせよ奄美人入寇太宰府徴税統制強化対す反乱とも考えられている。 これに対し翌年長徳4年998年)、大宰府から九州各地反乱起こした南蛮人奄美大島)を追捕征伐)する命が「貴駕島」へと発せられている。この貴駕島現在の喜界島考えられ大規模建築跡を含む城久遺跡喜界島中央部高台位置)が発見されたことにより、ここが命令受領した大宰府出先機関推定されている。 日本本土入寇襲撃し征伐報復されと言う点では、北方系の国(中国大陸朝鮮半島)からを除くと、南島系の琉球弧からは唯一の事例である。ただし前記のとおり太宰府でも混乱があり、賊が拠点とした島や征伐受けた島が必ずしも奄美大島だけとは限らず喜界島での記録残っていないため詳らかではない。 喜界島城久遺跡群からの9 - 11世紀頃の出土品は、九州土師器須恵器越州窯青磁白磁灰釉陶器が主である(第I期)。 更に、城久遺跡群の大ウフ遺跡からは大規模な製鉄所跡が発見されている。

※この「太宰府出先としての喜界島」の解説は、「奄美群島の歴史」の解説の一部です。
「太宰府出先としての喜界島」を含む「奄美群島の歴史」の記事については、「奄美群島の歴史」の概要を参照ください。

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