太宰府での幽居とは? わかりやすく解説

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太宰府での幽居

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 01:37 UTC 版)

三条実美」の記事における「太宰府での幽居」の解説

薩長同盟」も参照 慶応元年1865年正月15日五卿福岡藩黒崎湊(今の北九州市八幡西区)に上陸し宗像唐津街道赤間宿1ヵ月間宿泊をへて、2月13日太宰府到着した五卿身柄福岡藩が預かるが、薩摩藩久留米藩熊本藩佐賀藩が人を派遣し費用提供するという形になっていた。五卿幽閉先は太宰府天満宮別当延寿王院であり、ここで学問身体の鍛錬をおこたらず日々を過ごすこととなる。また福岡藩尊攘派早川養敬らが薩摩藩長州藩提携模索する中岡慎太郎や実美も共鳴し桂小五郎に対して薩摩藩への認識改めるよう伝えている。薩摩藩信用するかを「條公(実美)御明察」を通じて見定めるとしており、この後坂本龍馬伊藤俊輔井上聞多らと面会して薩長同盟成立立役者一人となった慶応2年1866年)には幕府から使者訪れ五卿大坂に移すよう求めてきた。しかし実美らは死を賭してでも動かない決めており、薩摩藩熊本藩強硬に反対したため幕府は手が出せなかった。この頃になると幕府失墜は明らかであり、延寿王院多く訪問者賑わい見せようになった慶応3年1867年)、中岡慎太郎京都公家と実美を連携させる案を模索していたが、その候補となったのがかつての政敵である岩倉具視であった。実美は岩倉がかつての「大姦物」であると難色示したが、岩倉縁戚である東久世通禧説得提携受け入れることとなった

※この「太宰府での幽居」の解説は、「三条実美」の解説の一部です。
「太宰府での幽居」を含む「三条実美」の記事については、「三条実美」の概要を参照ください。

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