朝廷による征討大将軍の任命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 12:14 UTC 版)
「鳥羽・伏見の戦い」の記事における「朝廷による征討大将軍の任命」の解説
同日、朝廷では仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任命し、錦の御旗と節刀を与え、新政府軍を官軍として任じた。なお、この錦旗となる旗は岩倉と薩摩藩が事前に作成しており、戦闘の際にその使用許可を朝廷に求めた事から「薩長が錦旗を偽造した」とする説もあるが、朝廷の許可を得て掲げられた事は確かであり、天皇の許可を経たのかは定かではないものの朝廷はそれを錦の御旗であると認めている。 また朝廷から薩摩藩に、黒谷にある会津藩邸の制圧の命が下る。薩摩兵は大砲を以て黒谷を攻撃した為、洛中は一時騒擾が起きた。尾張藩の徳川慶勝には二条城接収の命が下り、6日に接収している。入京していた因幡藩や柏原藩などの諸藩の兵も参戦を表明し、官軍となった薩長側に合流を始める。 5日、伏見方面の旧幕府軍は淀千両松に布陣して官軍を迎撃した。一進一退の乱戦の末に旧幕府軍は敗退し、鳥羽方面の旧幕府軍も富ノ森を失う。そこで現職の老中でもあった稲葉正邦の淀藩を頼って、淀城に入り戦況の立て直しをはかろうとした。旧幕府軍は、官軍を足止めするため伏見の町一帯に放火すると、淀城へ向かった。しかし淀藩は朝廷及び官軍と戦う意思がなく、城門を閉じ銃口を向け旧幕府軍の入城を拒絶した(ただし、藩主である正邦は当時江戸に滞在しており、藩主抜きでの決定であった)。入城を拒まれた旧幕府軍は、さらに大坂寄りの男山・橋本方面へ撤退し、旧幕府軍の負傷者・戦死者は長円寺へ運ばれた。また、この戦闘で新選組は古参の隊長であった井上源三郎ら隊士7名が戦死した。
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