朝廷との確執とは? わかりやすく解説

朝廷との確執

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:59 UTC 版)

楠木正成」の記事における「朝廷との確執」の解説

梅松論』には、後醍醐帝軍勢足利軍京都より駆逐したことに前後して、正成が新田義貞誅伐して、その首を手土産足利尊氏和睦するべきだと天皇奏上したという話がある。その根拠として、確かに鎌倉直接攻め落としたのは新田義貞だが、鎌倉幕府倒幕足利尊氏貢献によるところが大きい。さらに義貞には人望、徳がないが、足利尊氏多く諸将からの人望篤い九州尊氏落ち延びる際、多く武将随行していったことは尊氏に徳があり、義貞に徳がないことの証である、というものであった。 正成のこの提案は、『梅松論』にしか記載されておらず、事実かどうか不明である。しかし、歴戦武将であり、ゲリラ戦相手翻弄する手段を得意とし洞察力長けた正成は純粋に武将として器量として、義貞よりも尊氏高く評価していた。加えて、義貞と正成は、相性があまりよくなかったといわれる。義貞は京都軍勢構成する寺社衆徒や、その他畿内武士達とは関係が薄く『太平記』などに描かれる義貞は、鎌倉武士こそを理想武士とする傾向があり、彼らへの理解乏しかった河内国などを拠点活動する正成は、この点において、義貞と肌が合わなかったと考えられる一方で尊氏寺社への所領寄進などを義貞よりも遥かに多く行っていて、寺社勢力畿内武士との人脈多かった。義貞よりも尊氏の方が理解できる尊氏方に徳があると正成が判断してもおかしくはないと考えられている。 この提案は、天皇側近公家達には訝しがられ、また鼻で笑われただけであり、にべもなく却下されてしまった。 義貞は、播磨国白旗城篭城する足利方の赤松則村円心)を攻めている間に時間空費し延元元年/建武3年1336年4月尊氏多々良浜の戦い九州制覇して態勢立て直すと、京都奪還めざして東進はじめた尊氏高師直らと博多発ち備後国鞆津経て四国細川氏土岐氏河野氏らの率い船隊合流して海路東進し、その軍勢10万越していた。一方、義貞の軍勢はその数を日ごと減らし5月13日兵庫(現・兵庫県神戸市中央区兵庫区)に到着した時には2万騎を切っていた。

※この「朝廷との確執」の解説は、「楠木正成」の解説の一部です。
「朝廷との確執」を含む「楠木正成」の記事については、「楠木正成」の概要を参照ください。

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