朝廷の対応とは? わかりやすく解説

朝廷の対応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 02:25 UTC 版)

承元の法難」の記事における「朝廷の対応」の解説

朝廷は、朝廷内部にも信者がいることもあり「法然門弟一部には不良行為を行う者もいるだろう」と比較静観し興福寺に対して元久2年12月19日法然の「門弟浅智」を非難して師匠である法然宥免する宣旨出された。これに納得しない興福寺衆徒は翌元久3年2月五師三綱高僧上洛させ、摂関家に対して法然らの処罰働きかけた。その結果3月30日遵西行空処罰することを確約した宣旨出したところ、同日法然が行空を破門にしたことから、興福寺側も一旦これを受け入れたため、その他の僧侶に対して厳罰は処さずにいた。ところが、5月に入ると再び興福寺側から強い処分を望む意見届けられ朝廷では連日協議続けられた。ところが興福寺奏状には「八宗同心訴訟」であると高らかに謳っていたにも関わらず先に訴え起こした延暦寺でさえ共同行動動き見られず、当事者である興福寺側の意見が必ずしも一致していないことが明らかとなったために、朝廷協議うやむやのうちに終わった朝廷危惧した春日神木を伴う強訴もなく、6月には摂政就任した近衛家実祝するために興福寺別当らが上洛するなど、興福寺側も朝廷回答遅延反発するような動き見られず、このまま事態収拾されるかと思われた。そして、実際に法然らの流罪までに延暦寺興福寺何らかの具体的な行動起こしたことを示す記録残されていない

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朝廷の対応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 05:13 UTC 版)

貞観地震」の記事における「朝廷の対応」の解説

朝廷の対応は遅く地震から3か月経た貞観11年9月7日ユリウス暦869年10月15日になってようやく以下の通り從五位上紀春枝陸奥国地震使に任命したことが『日本三代実録』に記されている。 九月・・・七日辛酉・・・從五位上-行左衛門權佐-兼因幡權介-紀朝臣-春枝,爲陸奧國地震使。判官一人主典一人現代語訳意訳9月7日辛酉かのととり)の日、従五位上左衛門権佐因幡権介である紀春枝陸奥国地震使に任命したまた、判官一人主典一人併せて任命した発災から4か月経た11年10月13日ユリウス暦869年11月20日)の記事には、清和天皇が、陸奥国国境被災地とする詔を発したことが記載されている。朝廷は民夷を論ぜず救護にあたり死者はすべて埋葬するように命じた被災者に対して租税労役義務免除している。 冬十月・・・十三日丁酉、詔曰、羲農異代、未隔於憂勞、堯舜殊時、猶均於愛育、豈唯地震周日、姫文於是責躬、旱流殷年、湯帝以之罪己、朕以寡昧、欽若鴻圖、脩徳以奉靈心、莅政而從民望、思使率土之内、同保福於遂生、編戸之間、共銷灾於非命、而惠化罔孚、至誠不感、上玄降譴、厚載虧方、如聞陸奧國境、地震尤甚、或海水暴溢而爲患、或城宇頽壓而致殃、百姓何辜、罹斯禍毒、憮然媿(異本は愧)懼、責深在予、今遣使者、就布恩煦、使與國司、不論民夷、勤自臨撫、既死者盡加收殯、其存者詳崇賑恤、其被害太甚者、勿輸租調、鰥寡孤獨、窮不能自立者、在所斟量、厚宜支濟、務盡矜恤之旨、俾若朕親覿焉、 同年12月8日辛卯陸奥国正五位上勲九等苅田嶺神に従四位下を授ける(同じ記事12月25日にもあり)。吉田東伍三代実録原本では正六位上から従四位下の超階となっていることから、「府城の変災の歳に、三階超越したるは、正しく彼の災をば、山神憤怒に因るものと見做され証拠にもなる」としている。 同年12月14日ユリウス暦870年1月19日)には、清和天皇伊勢神宮使者遣わして奉幣し神前次の通り告文捧げた告文では、はじめに同年ユリウス暦869年6月15日から新羅海賊博多侵攻したこと(新羅の入寇)、次に7月14日肥後での地震風水の災、最後に5月26日陸奥国異常な地震の災についてごく簡単に述べ国内平安願っている。遅くとも翌年貞観12年9月までには、陸奥国修理を担う「陸奥国修理府」が設置されている。 また、京都平安京では、疫病死者怨霊などを払い鎮めるため御霊会などの儀式が行われた。これは、現在の祇園祭起源と言われている。

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朝廷の対応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 03:25 UTC 版)

刀伊の入寇」の記事における「朝廷の対応」の解説

権帥藤原隆家4月7日4月8日報告書送り京都届いたのは10日後、4月17日のことであり、4月18日には恩賞約した勅符発給されているが、主要な戦闘はすでに終結していた。 6月29日行われた陣定では、恩賞約され勅符出されたのは戦闘の後だったため、藤原行成藤原公任恩賞不要意見述べた藤原実資寛平6年894年)の新羅の入寇の際の例を上げ今後のことを考え約束がなくても恩賞与えるべきと述べた。これを受け、本来与える必要はないが恩賞与えることが決議されている。恩賞受けた例としては、戦闘活躍した大蔵種材壱岐守叙任されている。またこの際には、「刀伊捕らえられた」という高麗人捕虜証言について検討されている。 賊の主体高麗人でないと判明したのは、7月7日(8月10日)、高麗密航していた対馬判官代長嶺諸近帰国して事情報じ9月高麗人送使の鄭子良が保護した日本人270人を送り届けてきてからである。高麗使は翌年2月大宰府から高麗政府下部機関である安東護府に宛てた返書持ち帰国した藤原隆家はこの使者労をねぎらい黄金300両を贈ったという。

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