朝廷の対応
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朝廷は、朝廷内部にも信者がいることもあり「法然の門弟の一部には不良行為を行う者もいるだろう」と比較的静観し、興福寺に対しては元久2年12月19日に法然の「門弟の浅智」を非難して師匠である法然を宥免する宣旨が出された。これに納得しない興福寺の衆徒は翌元久3年2月に五師三綱の高僧を上洛させ、摂関家に対して法然らの処罰を働きかけた。その結果、3月30日に遵西と行空を処罰することを確約した宣旨を出したところ、同日に法然が行空を破門にしたことから、興福寺側も一旦これを受け入れたため、その他の僧侶に対しては厳罰は処さずにいた。ところが、5月に入ると再び興福寺側から強い処分を望む意見が届けられ、朝廷では連日協議が続けられた。ところが興福寺奏状には「八宗同心の訴訟」であると高らかに謳っていたにも関わらず、先に訴えを起こした延暦寺でさえ共同行動の動きは見られず、当事者である興福寺側の意見が必ずしも一致していないことが明らかとなったために、朝廷の協議もうやむやのうちに終わった。朝廷が危惧した春日神木を伴う強訴もなく、6月には摂政に就任した近衛家実を祝するために興福寺別当らが上洛するなど、興福寺側も朝廷の回答遅延に反発するような動きは見られず、このまま事態は収拾されるかと思われた。そして、実際に法然らの流罪までに延暦寺や興福寺が何らかの具体的な行動を起こしたことを示す記録は残されていない。
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朝廷の対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 05:13 UTC 版)
朝廷の対応は遅く、地震から3か月を経た貞観11年9月7日(ユリウス暦869年10月15日)になってようやく以下の通り、從五位上紀春枝を陸奥国地震使に任命したことが『日本三代実録』に記されている。 九月・・・七日辛酉・・・以從五位上-行左衛門權佐-兼因幡權介-紀朝臣-春枝,爲陸奧國地震使。判官一人、主典一人。 現代語訳(意訳)9月7日辛酉(かのととり)の日、従五位上行左衛門権佐兼因幡権介である紀春枝を陸奥国地震使に任命した。また、判官一人、主典一人を併せて任命した。 発災から4か月を経た11年10月13日(ユリウス暦869年11月20日)の記事には、清和天皇が、陸奥国の国境が被災地とする詔を発したことが記載されている。朝廷は民夷を論ぜず救護にあたり、死者はすべて埋葬するように命じた。被災者に対しては租税と労役義務を免除している。 冬十月・・・十三日丁酉、詔曰、羲農異代、未隔於憂勞、堯舜殊時、猶均於愛育、豈唯地震周日、姫文於是責躬、旱流殷年、湯帝以之罪己、朕以寡昧、欽若鴻圖、脩徳以奉靈心、莅政而從民望、思使率土之内、同保福於遂生、編戸之間、共銷灾於非命、而惠化罔孚、至誠不感、上玄降譴、厚載虧方、如聞、陸奧國境、地震尤甚、或海水暴溢而爲患、或城宇頽壓而致殃、百姓何辜、罹斯禍毒、憮然媿(異本は愧)懼、責深在予、今遣使者、就布恩煦、使與國司、不論民夷、勤自臨撫、既死者盡加收殯、其存者詳崇賑恤、其被害太甚者、勿輸租調、鰥寡孤獨、窮不能自立者、在所斟量、厚宜支濟、務盡矜恤之旨、俾若朕親覿焉、 同年12月8日辛卯、陸奥国の正五位上勲九等苅田嶺神に従四位下を授ける(同じ記事は12月25日にもあり)。吉田東伍は三代実録原本では正六位上から従四位下の超階となっていることから、「府城の変災の歳に、三階を超越したるは、正しく彼の災をば、山神の憤怒に因るものと見做された証拠にもなる」としている。 同年12月14日(ユリウス暦870年1月19日)には、清和天皇が伊勢神宮に使者を遣わして奉幣し、神前に次の通り告文を捧げた。告文では、はじめに同年(ユリウス暦869年)6月15日から新羅の海賊が博多へ侵攻したこと(新羅の入寇)、次に7月14日の肥後での地震風水の災、最後に5月26日の陸奥国又異常なる地震の災についてごく簡単に述べ、国内の平安を願っている。遅くとも翌年の貞観12年9月までには、陸奥国の修理を担う「陸奥国修理府」が設置されている。 また、京都平安京では、疫病や死者の怨霊などを払い鎮めるため御霊会などの儀式が行われた。これは、現在の祇園祭の起源と言われている。
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朝廷の対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 03:25 UTC 版)
権帥藤原隆家は4月7日と4月8日に報告書を送り、京都に届いたのは10日後、4月17日のことであり、4月18日には恩賞を約した勅符が発給されているが、主要な戦闘はすでに終結していた。 6月29日に行われた陣定では、恩賞が約された勅符が出されたのは戦闘の後だったため、藤原行成・藤原公任が恩賞不要の意見を述べた。藤原実資は寛平6年(894年)の新羅の入寇の際の例を上げ、今後のことを考え、約束がなくても恩賞を与えるべきと述べた。これを受け、本来与える必要はないが恩賞を与えることが決議されている。恩賞を受けた例としては、戦闘で活躍した大蔵種材が壱岐守に叙任されている。またこの際には、「刀伊に捕らえられた」という高麗人捕虜の証言についても検討されている。 賊の主体が高麗人でないと判明したのは、7月7日(8月10日)、高麗に密航していた対馬判官代長嶺諸近が帰国して事情を報じ、9月に高麗虜人送使の鄭子良が保護した日本人270人を送り届けてきてからである。高麗使は翌年2月、大宰府から高麗政府の下部機関である安東護府に宛てた返書を持ち、帰国した。藤原隆家はこの使者の労をねぎらい、黄金300両を贈ったという。
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