朝廷の第一人者へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 13:45 UTC 版)
6月、司馬冏は大軍を率いて洛陽に入り、上奏文をしたためて恵帝に拝謁すると、功績により大司馬に任じられ、九錫を下賜され朝政の管轄を委ねられた。散騎侍郎劉輿と冠軍将軍劉琨は司馬倫の側近であったが、司馬冏は彼らの才能を認めていたので罪を問わず、劉輿を中書郎に、劉琨を尚書左丞に任じた。また司馬冏は司馬倫の帝位簒奪に加担した中書令の陸機を処刑しようとしたが、司馬穎が助命を嘆願したため免罪とした。司馬冏に従って功績を挙げた葛旟・路秀・衛毅・劉真・韓泰はみな県公に封じられ、彼ら5人は司馬冏の腹心となって五公と呼ばれた。この時、司馬穎は自身が洛陽に留まれば司馬冏との間に軋轢が生じる事を分かっていたため、母の病を理由に鎮北大将軍としての任地であった鄴へと帰還した。 司馬冏の兄である東萊王司馬蕤は酒乱で凶暴であり、かねてより司馬冏をしばしば侮辱していた。また、司馬冏へ開府を要求したものの認められなかった事を恨み、左衛将軍王輿と共に司馬冏を倒す計画を練った。8月、司馬蕤らの計画は事前に露見し、司馬蕤は庶人に落とされ、王輿は三族と共に誅殺された。司馬蕤は上庸に移されたが、司馬冏は上庸内史陳鍾に命じて司馬蕤を暗殺した。12月、司馬冏の子である司馬冰は楽安王に、司馬英は済陽王に、司馬超は淮南王に封じられた。
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