横浜鎖港問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 05:35 UTC 版)
孝明天皇は熱心な攘夷論者であり、国政の諮問にあたる参預会議でも通商条約の破棄(破約攘夷)・海外貿易を許可した諸港の閉鎖(鎖港)が議題となった。しかし参預諸侯は元来開国的な考えを持っており、そもそも攘夷は不可能であることを認識していたため、鎖港には反対であり、かえって天皇の失望を買う。この時期、一部の攘夷派を除き、すでに諸外国との条約破棄は非現実的と見なされており、「攘夷」の具体的施策は兵庫(神戸)港の開港阻止、および横浜港の鎖港を意味するようになっていた。 一方、元々諸外国と条約を締結して開国を行った当事者である幕府も攘夷には反対していたが、前年の家茂上洛の際、孝明天皇から攘夷実行を約束させられており、すでに文久3年(1863年)12月に不可能を承知の上で横浜鎖港の交渉のため、フランスへ外国奉行・池田長発を全権とする交渉団(横浜鎖港談判使節団)を派遣していた。参預会議においても、当初横浜鎖港に難色を示していたはずの慶喜が、薩摩藩の擡頭を警戒し、久光の主張には同調できないとして、ことさら横浜鎖港の実行を主張することになる。2月15日に行われた参預会議では、久光と慶喜がこの問題で激しく衝突した。
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