横浜開港から大桟橋建設まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 09:00 UTC 版)
「大さん橋」の記事における「横浜開港から大桟橋建設まで」の解説
横浜港は幕末の1859年(安政6年)に開港して以来、急増する貨物量に対し、イギリス波止場(後の「象の鼻」波止場と呼ばれる)やフランス波止場と呼ばれる艀荷役に必要な小規模の船溜まりこそあったものの、直接岸壁に接岸し荷役を行える施設がなかった。 増加一途の貨物量は、艀荷役だけでは対応しきれなくなり、接岸荷役を可能にする近代埠頭の必要性が高まっていった。艀荷役は、慢性的な埠頭不足により、海上コンテナ輸送への質的転換まで長く続き、まずは近代国家に相応しい埠頭を建設することが当時の早急の課題とされた。 明治維新直後から井上馨大蔵大輔や、神奈川県知事からの要請により、1870年に工部省お雇い外国人の英国人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンによる横浜築港桟橋計画の提案や、1874年には内務省お雇い外国人オランダ人技師ファン・ドールンにより築港計画提案に至り、大隈重信大蔵卿からも接岸荷役体制に向けた築港計画が上申され、多くの要望があったが、実現できなかった。また当時、既に東京港建設の機運があり、品川沖に築港する案もあったが、横浜市からの反対や財政難により、、これも実現しなかった。 横浜開港から27年が経過した1886年になり、機運はいよいよ高まり、内務省からオランダ人技師デ・リーケへの設計要請や、神奈川県よりイギリス陸軍大佐であり技官であったヘンリー・スペンサー・パーマーへの設計要請となった。しかし両者の設計案は、明治政府内でも議論が拮抗し、さらに政府内ではその上位案件として、東京港建設と横浜港建設のどちらを先行させるかといった議論が深まっていた。 外務大臣になっていた大隈重信は、横浜港建設を強く進言し、さらにパーマーがイギリス帝国『タイムズ』記者を兼職して同紙上で日本を好意的に報道した実績や、不平等条約改正に向けた日英同盟への動きと相交じり、正式にパーマーの横浜港築港案が採択された。さらに下関砲撃事件での賠償のうち、アメリカ合衆国へ支払った賠償金が、1883年にグラント大統領およびアメリカ合衆国議会承認より、日本への償還が承認されており、償還賠償金785,000ドルを充当させることで資金的目処も整った。 この時期に横浜築港が正式決定されたことが、後年の横浜港や横浜市の発展に繋がる決定的瞬間であったともいえる。 こうして1889年に横浜築港第一期工事が始まり、接岸荷役が可能な埠頭の建設が始まった。しかし基礎に必要な螺旋杭は、日本の工場からは供給できなかったため、大量の螺旋杭を輸入して建築された。こうして1894年に現在の大さん橋の前身となる「鉄桟橋」が完成した。鉄桟橋は陸地からの総延長738メートル、桟橋部分は457メートル、幅19.2メートルの当時の技術で最先端を行く近代埠頭であった。 鉄桟橋の完成を見たものの、横浜港の貨物取扱量は近代日本の急成長とともにさらに急増し、外航路客船はともかく、依然として艀荷役に依存せざるを得ない状況であった。これは貨物滞留や物流遅延を招き、横浜経済界からも更なる横浜港拡充の要請が強まっていった。これが横浜築港第二期工事と繋がり、新港埠頭建設へと繋がっていった。 横浜築港第二期工事では「鉄桟橋」も拡張され幅42.8メートルとなり、2つの木造2層型上屋が新設され、低層部は貨物倉庫、上層部は旅客施設や旅具検査場、並びに電信電話設備や事務室が併設された。1913年に第二期工事は完成した。 こうして鉄桟橋は、外国航路の貨客船における日本の主要拠点となり、日本郵船・東洋汽船・大阪商船など日本海運業界の表玄関の一つとして利用され、外国海運業界の外国定期航路の拠点として活躍した。ヨーロッパ航路では英国P&O、北ドイツ・ロイド、フランス郵船、北米航路では米国太平洋郵船、カナダ太平洋汽船、アメリカンプレジデントラインズ等が定期航路を開設するようになった。 新港埠頭が完成すると、外国航路の一部を移譲した。新港埠頭4号岸壁は日本郵船の北米航路が使用し。9号岸壁は欧州航路が接岸する等鉄桟橋の負荷を緩和させた。鉄桟橋は外国籍船と日本郵船のシアトル航路が発着するようになった。新港埠頭4号岸壁からは、太平洋戦争後もシアトル航路に復帰した日本郵船の「氷川丸」が発着を続けた。氷川丸が1960年に最終航海を終了させるに伴い、新港埠頭の旅客業務も終了した。 鉄桟橋(後の大桟橋)を含む横浜港からは生糸や茶が主要な輸出品であり、大日本帝国に大きな外貨獲得機会をもたらした。生糸や茶貿易で大きく成長した横浜商社もあった。原三渓の歴史や、現在も観光名所である三渓園やシルクセンターに往事を偲ぶことができる。輸入品としては大豆、小麦、綿花、石炭等があった。
※この「横浜開港から大桟橋建設まで」の解説は、「大さん橋」の解説の一部です。
「横浜開港から大桟橋建設まで」を含む「大さん橋」の記事については、「大さん橋」の概要を参照ください。
- 横浜開港から大桟橋建設までのページへのリンク