横浜鎖港路線の成立とは? わかりやすく解説

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横浜鎖港路線の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 23:34 UTC 版)

天狗党の乱」の記事における「横浜鎖港路線の成立」の解説

水戸藩尊攘派活動が再び活発となるのは文久2年1862年)である。この年長州藩等の尊攘派主導する朝廷は、幕府対し強硬に攘夷実行要求し幕府もこれに応じざるを得ない情勢となった水戸藩においても、武田耕雲斎ら激派が執政となり、各地の藩校拠点尊攘派有志結集進んだ。翌文久3年1863年3月将軍徳川家茂朝廷要求に応じて上洛することとなり、これに先立って将軍後見職就任していた一橋慶喜上洛することとなると一橋徳川家当主配下家臣団少な慶喜のため、慶喜実家である水戸藩上洛への追従命じられた。水戸藩主徳川慶篤には、武田耕雲斎山国兵部藤田小四郎など、後に乱を主導することになる面々追従し小四郎らは京都において、長州藩桂小五郎久坂玄瑞らと交流し尊皇攘夷の志をますます堅固なものとした。 文久3年5月小四郎一橋慶喜追従して江戸に戻るが、八月十八日の政変により長州藩系の尊攘派京都から一掃され急進的な尊王攘夷運動退潮向かった。しかしなお天皇攘夷意思変わらず政変直前幕府表明していた横浜港鎖港について、引き続き実行に移すよう要求した9月幕府はこれに応じて横浜鎖港交渉開始するが、幕閣多くもとより交渉に熱心ではなく、あくまで横浜鎖港推進しようとする一橋慶喜らとの間で深刻な対立生じたこのころ諸藩尊攘派は、長州藩に代わって水戸藩頼みとするようになり、水戸浪士らが群集することとなった小四郎長州藩連携した挙兵計画構想し耕雲斎の強い慰留にも関わらず遊説金策奔走したこの頃小四郎武蔵国榛沢郡血洗島村埼玉県深谷市血洗島)の尊攘派豪農であった渋沢栄一とも、江戸で2度にわたり会見している。 文久4年1864年1月将軍家茂は老中とともに前年3月に続く再度の上洛を果たし参預会議構成する諸侯幕閣との間で横浜鎖港を巡る交渉が行われた。ここでも一橋慶喜横浜鎖港反対する他の参預諸侯対立し参預会議解体追い込んだ朝廷から禁裏御守衛総督任命され慶喜は、元治元年文久4年2月改元1864年4月には水戸藩士原市之進梅沢孫太郎家臣登用し武田耕雲斎依頼して200300名もの水戸藩士上京させて自己の配下組みこむなど、水戸藩勢力との提携深めた天狗党挙兵はその最中勃発したのである

※この「横浜鎖港路線の成立」の解説は、「天狗党の乱」の解説の一部です。
「横浜鎖港路線の成立」を含む「天狗党の乱」の記事については、「天狗党の乱」の概要を参照ください。

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