横浜鎖港督促
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 17:00 UTC 版)
8月26日、孝明天皇は「これまではいろいろ真偽の分明でないものもあったが、8月18日以後に発する勅命は真実私の意志であるから、そう心得よ」と在京の諸大名に伝えた。 政変の直後、朝廷はあらためて諸大名に対して幕命を待たずに攘夷を実行するよう命じ、うやむやになっている攘夷実行(横浜鎖港)を幕府に迫った。島津久光・松平春嶽・山内容堂ら旧一橋派諸侯は3月の帰国以来不在で、政変の遂行に協力し会津藩に次いで多数の藩兵を動員した在京大名は池田慶徳(因州)・池田茂政(備前)・蜂須賀茂韶(阿波世子)・上杉斉憲(米沢)ら攘夷派であり、その存在を意識してのことでもあるが、(無謀な戦争を望まないものの)孝明天皇の固い攘夷意志は政変後も変わらなかった。一橋慶喜は実兄池田慶徳に宛てて「幕議では開港・鎖港の問題について、将軍が上洛し諫奏するという老中板倉勝静の主張が通り、場合によってはまず板倉が上洛するということになった。自分は鎖港を実現してからの上洛をと思っているが、幕議がこの調子では公武の間はうまく治まるだろうか」と書き送っている。実際に上京したのは老中酒井忠績だったが、9月14日に参内した酒井に下された朝命は、横浜鎖港の猶予を許さず早急に実行するよう迫るものだった。
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