横浜鉄道海陸連絡線の開業
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このころ日本の重要な輸出商品として生糸があり、長野県や群馬県、山梨県などの内陸の生糸産地から運ばれた生糸は八王子に集められ、荷馬車で横浜港へ送られていた。この八王子と横浜を結ぶ重要な絹の道に鉄道を建設しようとする動きは何回もあったが、1902年(明治35年)になりようやく免許を認められ、横浜鉄道という会社が設立されて1906年(明治39年)6月に着工し、1908年(明治41年)9月23日に東神奈川 - 八王子間が開通した。これに合わせて東海道本線上に横浜鉄道との連絡駅として東神奈川駅が開設されている。 横浜鉄道では当初から、神奈川沖の海を埋め立てて岸壁を建設し、そこに貨物線を伸ばして海陸連絡を図る構想を持っていた。横浜鉄道発起人らは横浜倉庫株式会社を通じて神奈川沖の埋め立て免許を取得し、横浜鉄道はそこへ貨物線を延長する免許を取得した。これにより東神奈川駅から海側へ貨物線を延長することになったが、この当時すでに東神奈川駅のすぐ海側には京浜電気鉄道(後の京急本線)の線路があったために、京浜電気鉄道の線路を高架化することになり、1910年(明治43年)7月26日に下り線が、7月30日に上り線が高架化された。この京浜電気鉄道の仲木戸駅(現在の京急東神奈川駅)の下をくぐって、同年10月に横浜鉄道の線路が延長された。延長は63チェーン(約1.3 km)とされている。海岸側に設置された海神奈川駅の正式な開業は、1911年(明治44年)12月10日となっている。また1910年(明治43年)3月31日付の鉄道院(国有鉄道)と横浜鉄道の契約により、4月1日から横浜鉄道を国鉄が借り受けて営業することになり、この海陸連絡線は開業から国鉄が営業することになった。その後1917年(大正6年)10月1日付で横浜鉄道は正式に国有化され、国鉄横浜線となった。 この横浜鉄道の海陸連絡線は、横浜港において初めての臨港貨物線であった。しかし実際には、横浜倉庫がさらに沖合の埋め立て免許を取得することができず、岸壁の建造を行うことができなかったため、海陸連絡線も結局横浜倉庫の倉庫群との連絡を果たしただけで、本格的な船舶との連絡を果たすことはできなかった。 横浜線の海陸連絡線は、東神奈川駅の東側で横浜線の本線から分岐して南へカーブを切り、京急本線を京急東神奈川駅の下にあるガードでくぐって、国道15号(第一京浜)を横断して千若町の海神奈川駅へ至る構造であった。後に高島駅まで開業する貨物支線も途中までこれと並行して走っていた。国道15号には横浜市電生麦線が走っており、市電東神奈川駅前電停付近で複線同士の平面交差構造となっていた。このクロッシングポイントでは、国鉄側の線路に横浜市電の電車のフランジを通す隙間が設けられておらず、路面電車はフランジを国鉄のレールに乗り上げて通過していたとの証言がある。
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