横浜部長退任後
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2010年3月、同校教職員としての定年を迎えたことにより横浜硬式野球部部長を退任。後任を教え子であった平田徹に譲ったが横浜硬式野球部コーチとして指導を続けた。 2013年の夏の神奈川大会においては、淺間大基、髙濱祐仁を筆頭とした2年生中心のチームながら、準々決勝で全国No.1左腕として知られていた桐光学園の松井裕樹を攻略するなど、自身はベンチには入ることができないものの2年ぶりの甲子園に大きく貢献した。松井擁する桐光学園には前年夏・春と連続で敗れていたが徹底した分析により見事に攻略することに成功した。 2014年5月、8月31日付で同校のコーチを勇退するという辞令が発表された。70歳という年齢を区切りに同春センバツ大会後に自身で退任を決めたという。当初は監督の渡辺も一緒に勇退する予定であったが「ここで放り投げてはならない」と続投した。 渡辺は「小倉に最後は監督をさせてあげたい」と自身は部長としてベンチ入りし、2人で勝ち抜くプランを内緒で立てていたものの高野連の規定で部長(責任教師)は学校の教諭でなければならず、断念した。県予選は順調に勝ち上がったものの準決勝で強力投手陣を擁する東海大相模に惜敗し、甲子園出場はならなかった。 横浜での最後の指導に於いて小倉は「(渡辺から)データ収集をやってくれと言われたらやる。横浜は絶対に裏切らない」と語っている。 コーチ退任後、全国各地でアマチュア野球の指導をしている。 2018年8月からは山梨学院高校でコーチを務めている。
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