横浜転居と出征
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1937年(昭和12年)1月24日にも一路山梨支部新年歌会に参加し、1月末には東京に山下陸奥を訪問している。8月1日から8月2日には山梨県の山中湖畔で「一路」懇親大会が開催され、方代も参加している。11月25日には母の「けさの」が死去し、方代は眼病を患う父とともに、神奈川県横浜市浅間町に住む姉の関家に引き取られる。 方代の横浜転居時期は1938年(昭和13年)1月とされているが、右左口村出身で右左口尋常高等小学校時代に方代と同級であった武田保重旧蔵の写真「山崎君離郷記念 十三・二・五」には、昭和13年2月5日の日付が記されている。武田保重は自身も山梨日日新聞に川柳を投稿している人物で、写真は方代が右左口生年団文芸部の仲間とともに撮影した記念写真であると判断されている。写真の日付から方代は昭和13年2月には右左口村で身辺整理を行い、2月5日に記念写真を撮影し、2月6日に甲府信用組合楼上で開催された一路山梨支部新年歌会に出席し、3月頃までに横浜への転居を完了したと考えられている。 1941年(昭和16年)7月には臨時招集され、千葉県の陸軍東部第77部隊へ入隊する。翌年には野戦高射砲第33大隊一等兵として出征し、南方方面で戦う。シンガポール、ジャワ島、ティモール島と転戦し、ティモール島のクーパンの闘いで負傷し、右目を失明する。野戦病院で終戦を迎える。
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