目付時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/15 09:55 UTC 版)
文久3年(1863年)1月、政事総裁職松平春嶽に従い上洛、2月に京都について幕府に攘夷実行を迫る朝廷への上奏文の草案作成を担当する一方、前年12月に浪士組掛に任命、清河八郎の暗殺に関わったとされる。3月に江戸へ戻るも12月に14代将軍徳川家茂に従い再び上洛、元治元年(1864年)5月、朝廷に横浜鎖港を約束した家茂に随行して江戸に帰還した。 しかし、前年3月に罷免された春嶽の後任として政事総裁職に就任した松平直克が6月3日に横浜鎖港問題遂行の為に板倉勝静ら穏健派9人を罷免すべきと家茂に言上、梅潭は17日に辞任した(翌18日に勝静も辞任)。
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