大山綱栄とは? わかりやすく解説

大山綱栄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/06 14:14 UTC 版)

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大山 綱栄
時代 江戸時代中期
生誕 正徳5年(1715年
死没 天明8年2月23日1788年3月30日
改名 幼名:彦太郎
別名 :広伴→広品→綱栄、通称:休左衛門、文左衛門、彦兵衛
戒名 觀機軒即庵堅居士
墓所 曹洞宗福昌寺末寺の松原山南林寺墓地、大正年間の改葬先不詳。
幕府 江戸幕府
薩摩藩
氏族 佐々木源氏大山氏
父母 父:大山六郎兵衛綱広
綱道
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大山 綱栄(おおやま つなひで)は、江戸時代中期の薩摩藩鹿児島城下士。家格は初め小姓与から、のち一代新番。宝暦6年10月(1756年)当時の石高は71石。

経歴

父の六郎兵衛綱広(? - 享保12年(1729年)6月25日)は寺社方取次をつとめて一代新番となっていた。子の綱道の代で代々小番(小番の家格を世襲できる身分)になる。藩職は表小姓、御側小姓、中通御目付([1]喜界島代官。側小姓時代は藩主島津継豊に近侍。その参勤交代に同行して江戸に数回赴く。中御目付時代に家格が御小姓与から一代新番に昇格。

生涯

宝暦6年(1756年)島津重豪の藩主就任時に、薩摩藩国目付になった京極兵部高主、青山成親らに提出するために宝暦6年10月に改めた薩摩藩分限帳では「小納戸役、大山文左衛門 71石 外蔵米48俵[2]」として登場。この時には、通称が文左衛門になり、石高は71石になっていたようだ。なお、子の大山綱道も「大山休左衛門」として同資料に登場。宝暦9年(1759年)喜界島代官として喜界島に渡海。当時の通称は文左衛門宝暦11年(1761年)任期満了につき鹿児島に戻る。天明8年(1788年)2月23日、死去。享年74。

家族・親族

  • 父:大山六郎兵衛綱広(寺社方取次を勤める)
  • 子女:大山綱道

脚注

  1. ^ この職、御供目付が正徳3年3月に改称したもの。のちの天明3年、御供目付に名称戻る。
  2. ^ なお、蔵米48俵は「薩藩政要録」を見ると役料である事が分かる

参考文献

  • 原口虎雄監修『薩州嶋津家分限帳』(青潮社鹿児島県立図書館蔵)
  • 尾野実信『元帥公爵 大山巌』(鹿児島県立図書館蔵)
  • 『奄美資料集成』(鹿児島県立図書館蔵)
  • 「鹿児島県資料集1 薩藩政要録」




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