漢城時代とは? わかりやすく解説

漢城時代( –475年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 12:35 UTC 版)

百済」の記事における「漢城時代( –475年)」の解説

漢城時代の百済北側勢力拡大する高句麗武力衝突繰り返した371年近肖古王(『三国史記によれば第13代)の治世下、高句麗平壌城を陥落させ、故国原王戦死させる戦果をあげた。この頃から百済外国史料登場しはじめる。平壌占領翌年には百済使者初め東晋入朝し、近肖古王鎮東将軍楽浪太守として封建された。ほぼ同時期に倭国との通交始まり七支刀七枝刀 ななつさやのたち)と呼ばれる儀礼用の剣が倭国贈られたことが『日本書紀』見える。 この刀は現存しており、銘文分析から369年近肖古王治世24年)に作成されたと考えられている。同じく『日本書紀』見え百済の照古王は近肖古王を指すと考えられるまた、三国史記によれば近肖古王治世博士高興百済に文字伝え初め記録がされるようになったという。 これらから、近肖古王治世百済朝鮮半島における有力な国家1つとして台頭する画期であり、国家体制整備され時代と見なされている。時代が進むと、周辺諸国との関係を通じて百済には多様な集団関わるようになった後の時代には倭国との連携強化と関わって百済権力層倭国系の姓氏帯び集団倭系百済官僚)が登場し、また楽浪遺民帯方遺民などの中国人士はじめとする外来多様な集団権力内部取り込まれ、これらを通じて百済発展遂げた第15代枕流王治世には南朝経由して西域僧侶摩羅難陀百済渡り、王から丁重な歓待受けた翌年には彼のために漢城(漢山)に仏寺建設され、これが公式には最初百済への仏教伝来とされている。

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