漢城時代( –475年)
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漢城時代の百済は北側で勢力を拡大する高句麗と武力衝突を繰り返した。371年、近肖古王(『三国史記』によれば第13代)の治世下、高句麗の平壌城を陥落させ、故国原王を戦死させる戦果をあげた。この頃から百済は外国史料に登場しはじめる。平壌占領の翌年には百済の使者が初めて東晋に入朝し、近肖古王は鎮東将軍領楽浪太守として封建された。ほぼ同時期に倭国との通交も始まり、七支刀(七枝刀 ななつさやのたち)と呼ばれる儀礼用の剣が倭国へ贈られたことが『日本書紀』に見える。 この刀は現存しており、銘文の分析から369年(近肖古王治世第24年)に作成されたと考えられている。同じく『日本書紀』に見える百済の照古王は近肖古王を指すと考えられる。また、『三国史記』によれば近肖古王の治世に博士高興が百済に文字を伝え、初めて記録がされるようになったという。 これらから、近肖古王の治世は百済が朝鮮半島における有力な国家の1つとして台頭する画期であり、国家体制が整備された時代と見なされている。時代が進むと、周辺諸国との関係を通じて百済には多様な集団が関わるようになった。後の時代には倭国との連携強化と関わって百済の権力層に倭国系の姓氏を帯びる集団(倭系百済官僚)が登場し、また楽浪遺民・帯方遺民などの中国系人士をはじめとする外来の多様な集団を権力内部に取り込まれ、これらを通じて百済は発展を遂げた。 第15代枕流王の治世には南朝を経由して西域の僧侶摩羅難陀が百済に渡り、王から丁重な歓待を受けた。翌年には彼のために漢城(漢山)に仏寺が建設され、これが公式には最初の百済への仏教伝来とされている。
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