倭系百済官僚とは? わかりやすく解説

倭系百済官僚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/21 09:31 UTC 版)

倭系百済官僚(わけいくだらかんりょう)は、日本人倭人)であるが、百済王権に仕えた百済官僚日系百済官僚という用語も使われている[1]

概要

倭系百済官僚の出現時期は、欽明朝から敏達朝540年代から580年代)になる。倭系百済官僚の父親(倭人)が朝鮮に赴き活動した時期は倭系百済官僚活動の一世代前であるため、倭国では継体朝、百済では武寧王代になる[2]。倭系百済官僚の父親の朝鮮移動が6世紀初頭に活発化していることは疑いなく、起点は475年漢城百済の崩壊であり、百済復興のために倭国も積極的に介入を試みており、この過程で倭国の公的使者のみならず、倭国豪族の非公的な朝鮮移動が推定される。倭系百済官僚の父親の朝鮮滞在期間は、長期、短期、永住など様々であろうが、滞在中に生した子が成長して百済に仕えたのが倭系百済官僚といえる[2]

考証

笠井倭人は、「日系百済官僚起用の意義は…百済の南下体制を強化しようとする所にあった」「百済の対倭関係外交が最も緊要度を強めたとき、百済の期待をになって起用され、…両国の懸橋的存在として活躍した」と指摘しており、高句麗の圧迫による百済南遷に際し、朝鮮半島南部へ進出を進めた過程で倭国との連携の必要性を認めて倭人を官僚として採用したと理解している[3]。田中史生は、「複数王権と多重に結合する人々」「王権外交をその現場において担うことを期待されていた」と指摘しており、百済は南遷にあたって勢力回復のために南進政策を推進したが、そのためには倭国との外交的協調が必要であったため、倭人を官僚として起用したが、倭人は倭王権とも結合したままであり、その両属性によって外交現場において日本・百済間の利害を調整した、となる[3]

金起燮は、百済の対中国外交に携わった人物の多くが中国系百済人(張威張茂高達会邁慕遺楊茂王茂張塞陳明王辯那王孝隣燕文進)だったように、百済が倭系百済官僚に期待したのがヤマト王権の対百済軍事援助を主とする対倭関係の橋渡しだったため、対倭国外交に倭系外交官を登用した、と指摘している[4]

人物

『日本書紀』以外に見える倭系百済人

日本書紀』以外にも倭人の末裔と見られる百済人が複数見られる。

続日本紀』には、百済からの渡来人に賜姓した記事が複数見られるが、その中に

  • 物部射園連を賜った物部用善
  • 久米連を賜った久米奈保麻呂
  • 羽林連を賜った都能兄麻呂(都怒国造の末裔か)
  • 坂原連を賜った竹志麻呂(筑紫国造の末裔か)

がおり、倭人の末裔であると考えられる。なお、『大日本古文書』所収の正倉院文書「西南角領解」には摂津職百済郡南部郷戸主正六位下竹志麻呂と戸口の竹志浄道が見える。また、『新撰姓氏録』河内諸蕃には佐々良連の始祖として「久米都彦」が見え、久米奈保麻呂の同族であると考えられる[6]

脚注

  1. ^ 李在碩「六世紀代の倭系百済官僚とその本質」『駒澤史学』第62巻、駒澤史学会、2004年3月、52頁、CRID 1050564288184403072 
  2. ^ a b 河内春人 2017, p. 115
  3. ^ a b 河内春人 2017, p. 110-111
  4. ^ 金起燮『백제의 주민과 이주 여성』한국여성사학회、2017年、10頁。 
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 李在碩「六世紀代の倭系百済官僚とその本質」『駒澤史学』第62巻、駒澤史学会、2004年3月、38-39頁、 CRID 1050564288184403072 
  6. ^ 菅澤庸子「八世紀における新来渡来人の改賜姓について[1]

参考文献


倭系百済官僚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 13:55 UTC 版)

科野国造」の記事における「倭系百済官僚」の解説

科野の氏を持つ倭系百済官僚。科野国造軍として朝鮮出兵した国造の子弟が、現地人の妻との間に残した子孫であるとされる。ただし、「物部莫奇武連」「紀臣奈率彌麻沙」のような他の倭系百済官人とは異なり、姓を有している様子見られないので、ここでの「シナノ氏」は「科野国造一族」という意味ではなく氏姓制度成立する以前朝鮮渡った信濃人間が「シナノの人の〇〇」といったニュアンス呼ばれていた(=シナノは氏ではない)とする説も存在する信濃人間外交従事したのは、ヤマト王権内で信濃人間一定の役割担っており、そのようになったのは、渡来人によって信濃軍事行動の要である馬の文化伝えられたからであると考えられる斯那奴阿比多(しなぬ(の)あひた)継体天皇紀、欽明天皇紀に登場する百済使者小林敏男は、「科野」の地名が「シナ段差)」に由来する説を取った上でシナノという地名発生地を埴科・更科エリアであるとし、斯那奴阿比多更埴エリア出身の人物であるとした。 斯那奴次酒(しなぬ(の)しす、科野次酒欽明天皇紀に登場する百済の上部德率、施德、内臣德率。 科野新羅(しなぬ(の)しらき)欽明天皇紀に登場する百済の上部奈率。

※この「倭系百済官僚」の解説は、「科野国造」の解説の一部です。
「倭系百済官僚」を含む「科野国造」の記事については、「科野国造」の概要を参照ください。

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