任那日本府と百済
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 07:36 UTC 版)
『日本書紀』欽明天皇条には、「印支彌(いきみ)」という倭人、あるいは倭系渡来人が登場するが、「百済本記」には「我留印支彌之後、至既酒臣時」と、百済の聖明王の言葉には「夫遣印支彌於任那者、本非侵害其國」とあり、印支彌は百済が派遣したもので、その去就も百済王の意向次第であったと記されている。しかし、印支彌は必ずしも百済の意図通りには活動しておらず、任那日本府が百済の統制下にあったとするのは不可能である。百済は河内直らの追却を倭国に要請し、的臣の死去を報告するとともに、「伏願天慈速遣其代、以鎮任那」と述べており、百済の認識としては「日本府」官人の進退は倭国側の統制下にあると考えられていたことがわかる。百済が安羅に派遣した使者の中に倭系百済官僚の紀臣奈率彌麻沙、施徳斯那奴次酒が見えており、「日本府」の吉備臣・河内直らに対する百済の認識、つまり彼らを倭人と位置づけていることがわかるとする指摘も存在する。また『日本書紀』には「日本卿等、久住任那之國、近接新羅之境」とも記されているので、印支彌はたとえ百済から到来したとしても、百済とは別の「任那日本府」の一員、つまり「在安羅諸倭臣等」として行動する必要があったと考えられる。
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