任那の混乱と仏教公伝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 06:57 UTC 版)
第二十六代天皇として群臣が選んだのは誉田別(応神天皇)の5世孫である越前の男大迹(オホド)王だった(継体天皇)。この頃、朝鮮半島南部では新羅が勢力を拡大し圧迫を受けた加羅(任那諸国の1つ)は日本に救援を求めた。しかし新羅と結んだ筑紫君磐井が反乱を起こす。磐井の乱が鎮圧されると任那には近江毛野が派遣されたが傲慢で稚拙な交渉がさらなる混乱を招いた。 第二十九代の磯城島天皇(欽明天皇)は男大迹天皇の三男である。この頃にも任那を巡る様々な交渉が任那日本府を介して行われた。百済からの仏教公伝はこの一環である。しかし百済、任那諸国、日本府はお互いの思惑が一致せず、これに乗じた新羅は562年に任那を滅ぼしてしまう。激怒した天皇は新羅に対して討伐軍を送るが敵の罠にかかってしまい退却する。天皇は任那奪還を託して崩御した。 第三十代の他田天皇(敏達天皇)が父の跡を継いだが百済から伝わった仏教を巡って物部氏と蘇我氏が対立する事態になった。醜い争いが続いた末、天皇は崩御直前に仏教を禁じた。 第三十一代の橘豊日天皇(用明天皇)は他田天皇の異母弟である。この天皇は先帝の方針を覆して仏教に帰依した。しかしその治世はわずか1年半だった。天皇が崩御すると直接的な武力抗争が起き崇仏派の蘇我氏が勝利して廃仏派の物部氏は滅ぼされた(丁未の乱)。以降約半世紀の間、蘇我氏が大臣として権力を握った。 第三十二代の天皇に据えられた泊瀬部皇子は他田天皇と橘豊日天皇の異母弟である(崇峻天皇)。しかし蘇我馬子と不和になった天皇は592年に暗殺されてしまった。臣下に直接殺された唯一の天皇である。しかし特に混乱も起きず蘇我馬子は他田天皇の皇后だった額田部皇女を第三十三代天皇に推戴した。日本初の女帝となる炊屋姫天皇(推古天皇)である。
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