漢城府の占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:42 UTC 版)
4月29日、一方で日本軍も忠州より行軍を再開していた。しかし、朝出たときは晴れていた天候が悪化し、午後に朝鮮国王が遭遇したのと同じ大雨となって、行く手を遮った。一番隊は雨によって道に迷い、結局、丸1日を浪費した。驪州に到着したのは5月1日だった。そこから驪江を渡ろうとするが、川は増水して馬では渡れず、北岸に江原道助防将元豪率いる数百名の小部隊が現れたことから、小西行長と宗義智は先発隊だけを船で渡らせ、両岸に滞陣して一夜を過ごした。翌日、元豪の部隊は戦わずに撤退したが、増水は依然続いていたので、行長らは先発隊だけを連れ、楊根を経由して龍津で漢江を渡って午後8時に漢城府に到達した。本隊の大部分はまだ驪州あり、渡河作業 を続け、到着は3日の夜となった。 二番隊(脇坂安治隊も陸上部隊として同行)は、陰城、竹山、陽智、龍仁と別路を進み、5月2日正午に漢江までたどり着いたが、大河を前にして船がなかった。加藤清正は対岸まで泳いで船を奪ってくる者を募り、曾根孫六なる者が敵船を奪って帰還。これを使ってさらに敵船を奪い、渡河を実行した。 都元帥金命元は僅か千名を率いて漢江北岸の済月亭(京城府普光町)で待機していたが、日本軍の数を一望して戦意喪失。火砲を川に遺棄させ、自らは服を変えて遁走した。申恪も山中に逃れ楊州へ逃げたので、指揮官が居なくなった軍は崩壊した。従事官沈友正が金命元に追いつき、号泣し馬にすがってこれを止めると、西行した国王を守るために臨津に向かうのだと言った。李陽元は漢江防衛の軍が霧散したと聞いて、都を放棄して楊州へ撤退した。このため守備兵はいなくなった。 5月2日、朝鮮の首都・漢城府は陥落した。これは開戦からわずか21日での出来事であった。午後8時、東大門の城門は堅く閉じられていたものの、小西行長らは城壁にあった小さな水門を壊して入り、内側から城門を開いて入城した。加藤清正は南大門から入城した。秀吉への報告では「5月2日戌刻(午後8時)」とあるが、一番隊の記録である『西征日記』と『吉野日記』では二番隊の入城は「5月3日」で「辰刻(午前8時)」とされており、清正は先陣の手柄を得るために1日早めて報告したという説もある が、早めたにしても同日同刻の到着に過ぎない。他方で太田牛一の『高麗陣日記』では、日付時間の記述はないものの、斥候より戻った木村又蔵が遠方の山に行長隊を見つけてまだ都には到着していないと報告、これを聞いた加藤清正は4、5人を連れて急ぎ馬を駆り、都一番乗りを果たしたので、太閤に注進したとされている。 漢城府は、一番隊が接近した段階で(前述の朝鮮乱民の放火により)煙を上げていた。日本軍が入城した頃には景福宮・昌徳宮・昌慶宮の三王宮はすでにほとんど焼け落ちていた。『宣祖実録』によると、朝鮮の民衆は李朝を見限り、いわゆる叛民 となって、日本軍に協力する者が続出したという。また同じく朝鮮の史書『燃藜室記述』にも、日本軍が敵の伏兵を恐れて容易に城内に入れないでいると、宗廟宮闕を掠奪して家々を放火した朝鮮人の叛民が門を開けて、日本軍を迎えたと書かれている。ルイス・フロイスも、朝鮮の民は「恐怖も不安も感じずに、自ら進んで親切に誠意をもって兵士らに食物を配布し、手真似で何か必要なものはないかと訊ねる有様で、日本人の方が面食らっていた」と記録している。 日本軍は朝鮮国王の追撃を行わず、『吉野日記』によると一番隊は禁中に割拠して、残っていた珍品財宝・絹布を分捕り、休息場所とした。5月5日、小西行長の宿営に加藤清正が来て協議し、城外に宿営を移して、城門に木札を立て、逃亡した朝鮮都民の還住を促すことになった。秀吉の16日付の命令でも、城外野営と住民の還住という全く同じ指示がなされており、もともと事前の訓示があったものと理解される。日本軍は明国境に進むのが目的であり、後方の拠点とすべき都を荒らす意図は最初からなく、秀吉はさらに宮殿内に御座所を設けるように矢継早に指示をしてくることになる。逆にいえば、一番隊は秀吉の命令を徹底させていなかったので、清正に是正を求められたということだろう。 朝鮮都民はしばらくすると京城に戻って通常の生活を始めた。『燃藜室記述』では朝鮮都民が日本軍の統治に服した様を「賊に媚び相睦み、嚮導して悪を作すものあり」と書いて 都民の変節を批判する一方、誣告された人々の髑髏が南大門の下に山積みにされていたという記述があるものの、『西征日記』にも(しばしば乱民となった)民を鎮撫する高札の話があり、治安を保とうという最大限の努力を日本軍は行った。 別路を進んでいた三番隊の黒田長政は、5月7日に京城に到着した。釜山=漢城府間の日本軍連絡線には数十里毎に関所が設けられて兵士が常駐することとされ、夜は火が焚かれて、狼煙台も造られつつあった。七番隊 の宇喜多秀家と奉行衆は秀吉に漢城府の守備と統治を命じられたので、5月2日に釜山に上陸すると、この道を急ぎ強行軍して、6、7日には京城に到着した。四番隊の毛利勝信、高橋元種、秋月種長、伊東祐兵、島津忠豊らは、(道程はよく分からないが)10日頃に相次いで京城に到着した。四番隊の中で遅参していた島津義弘は、隊の一部がようやく5月2日に釜山に到着したが、領国の近くで梅北国兼と国人衆が起こした一揆の後処理で国許を離れることができなくなって、後続が熊川に着くのは6月27日と、まだ参戦できない状態だった。 詳細は「梅北一揆」を参照 五番隊は四番隊に続いたとされ、道程や期日などはよく分からないが、5月中旬には忠清道と慶尚道の境に展開して、福島正則は竹山に、蜂須賀家政は忠州に、長宗我部元親は開慶に陣を布いた。 六番隊は釜山と東萊の近辺にいて集結中であったが、しばらく後、5月10日になって玄風に進んで、慶尚右道に展開した。18日に毛利輝元は星州に、小早川隆景は善山に、立花統虎・高橋統増・筑紫広門は金山に配置された。毛利輝元は6月12日になって開寧に陣を進めた。こうして六番隊と五番隊は連携して前述の日本軍連絡線の守備に就いた。この段階では日本軍の配置は釜山から漢城府の街道上に集中していた。八番隊 と九番隊の詳細は分かっていない。
※この「漢城府の占領」の解説は、「文禄・慶長の役」の解説の一部です。
「漢城府の占領」を含む「文禄・慶長の役」の記事については、「文禄・慶長の役」の概要を参照ください。
- 漢城府の占領のページへのリンク