漢四郡否認論の争点と問題点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 19:16 UTC 版)
「漢四郡」の記事における「漢四郡否認論の争点と問題点」の解説
奇庚良(朝鮮語: 기경량、ソウル大学)は、「韓国の歴史学界は楽浪郡の中心地域を平壌とみる楽浪郡平壌説が定説」であり、「史料の無理解によるとんでもない主張をする似非歴史家」は、「自らの無知を客観的に認識することができず、誤りを矯正する考えもない。歴史研究は、史料を正確に把握する専門的訓練と研究対象に対する客観的な態度を備えなければならず、これこそが学問である『歴史学』と学問ではない『似非歴史学』の超えられない決定的な壁だ」と評しており、「似非歴史家の『楽浪郡は平壌に存在しない』という主張をファクトチェックしよう」として、「似非歴史学界の代表格のイ・ドギル(ハンガラム歴史文化研究所長)」の漢四郡否認論の問題点を指摘している。 イ・ドギル所長は、「楽浪郡平壌説は、植民地時代に日本人学者が創作した歪曲された歴史認識」「漢四郡の楽浪郡が平壌に存在したことを示す史料は一つもなく、楽浪郡は河北省に存在したという中国史料が数多ある」「楽浪郡平壌説を立証する証拠は全くない」として、韓国の歴史学界を「植民史観(朝鮮語版)」「親日派」と非難している。これに対して奇庚良(朝鮮語: 기경량、ソウル大学)は、「実に衝撃的な発言と言わざるを得ない。…イ・ドギル所長の言葉通りなら、韓国の歴史学界は一つの証拠も確保できていない学説をひたすら『親日』目的のために定説にしていることになる。…結論からいえば、とんでもない主張だ」「楽浪郡平壌説は、植民地時代に日本人学者が突然創作した産物ではない。楽浪郡が平壌に存在したことを証明する数多の史料が存在し、朝鮮の歴史のなかで長期間通説として公認されてきた。李氏朝鮮を代表する学者の丁若鏞は地理学に造詣が深かったが、著書『我邦疆域考』において、漢四郡の位置を詳細に論じ、『楽浪郡の位置は平安道と黄海道』と明らかにした。高麗時代に編纂された『三国史記』地理志も『平壌城(朝鮮語版)は楽浪郡』と言及しており、『三国遺事』も同様の認識を示している。この他、楽浪郡の位置を平壌と叙述する史料は枚挙にいとまがない」として、楽浪郡平壌説は、朝鮮の学者が数百年間積み重ねてきた研究成果であるにもかかわらず、似非歴史家は、楽浪郡平壌説は植民地時代に日本人学者によって突然創作されたかのように主張しているが、丁若鏞のような実学者や高麗王朝人は植民史観(朝鮮語版)と関係なく、高麗時代から李氏朝鮮を通じて「楽浪郡平壌説」は通説の地位を失ったことはなく、「楽浪郡平壌説=植民史観(朝鮮語版)」の図式は徹底的に嘘であると批判している。 イ・ドギル所長は、「最重要なのは、漢四郡が実際に設置されていた当時に書かれた『一次史料』であり、中国の『一次史料』には『楽浪郡は遼西および遼東に存在した』という記録があり、『漢書』『後漢書』を「一次史料」として列挙している。これに対して奇庚良(朝鮮語: 기경량、ソウル大学)は、イ・ドギル所長が「一次史料」と提示している史料は、楽浪郡の設置から数百年後の唐の顔師古や李賢が『漢書』『後漢書』に付け足した「注釈」であり、当然「一次史料」ではない。例えるなら、金富軾が著した『三国史記』に現代の歴史学者Aが補足と解説を付け足した『訳注本』があるとして、『訳注本』で現代の歴史学者Aが付け足した補足と解説を「まさに金富軾が書いた叙述だ。後代人が付け足した内容は一つも重要ではない。金富軾本人がどのように書いたかが重要だ」と主張しているのと同じであり、「史料に対する無理解が招いた大惨事である。…史料の本文と後代人が付け足した注釈さえ区別することができず、適当に『一次史料』と主張するのが似非歴史家の研究水準だ」と評している。 イ・ドギル所長は、中国の「一次史料」に「楽浪郡は遼西および遼東に存在した」という記録があり、『漢書』『後漢書』を「一次史料」として列挙している。これに対して奇庚良(朝鮮語: 기경량、ソウル大学)は、『漢書』『後漢書』の「注釈」は後代人の唐の顔師古や李賢が付け足したものであり、「一次史料」ではないが、一部の中国史料には楽浪郡が遼河にあったという記録があるが、313年、楽浪郡は高句麗の攻撃を受け、事実上終焉する。楽浪郡を率いていた張統は自らに従う楽浪郡の住民とともに、遼西および遼東を支配していた慕容廆のもとに亡命した。慕容廆は亡命者のために領土内に新たに「楽浪郡」を設置したが、これらは『資治通鑑』が詳述している。このように本拠を離れた人々を新しい土地に定着させ、かつて居住していた地域名を継承して使用することを「僑置」、設置された行政区域を「僑州」「僑郡」「僑縣」といい、「似非歴史家は、後代の史料を断片的に切り取って、楽浪郡は遼西および遼東に存在したと勘違いしている。中国の歴史や僑置に関する知識が全くないために生じた『無知の所産』である」と評している。 イ・ドギル所長は、楽浪郡は河北省盧竜県にあったと主張している。これに対して奇庚良(朝鮮語: 기경량、ソウル大学)は、楽浪郡存在時の「一次史料」である陳寿が著した『三国志』には、3世紀ころの満州から朝鮮半島にかけて存在した高句麗、夫余、濊貊、沃沮、三韓などの地理情報を詳述しており、『後漢書』まで参照すると、より詳細な地理情報が得られ、『三国志』『後漢書』などの当代史料は、三韓は楽浪郡と帯方郡の南側に存在すると記述している。盧竜県は海辺に位置しており、主張が事実なら楽浪郡南側に存在したと伝える三韓は海上に存在したことになり、「似非歴史家は、楽浪郡を中国大陸に移動させることだけに満足しているが、そう簡単なことではない。楽浪郡を中国大陸に比定した場合、楽浪郡の周囲に存在していた高句麗、濊貊、沃沮、三韓まで同時に移動させなければならず、古代朝鮮半島は空白となり、歴史的空間としての朝鮮半島を抹殺するということだ」と評している。
※この「漢四郡否認論の争点と問題点」の解説は、「漢四郡」の解説の一部です。
「漢四郡否認論の争点と問題点」を含む「漢四郡」の記事については、「漢四郡」の概要を参照ください。
- 漢四郡否認論の争点と問題点のページへのリンク