高麗
高麗王朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/19 06:04 UTC 版)
弊邑本海外之小邦也、自歷世以來、必行事大之禮、然後能保有其國家、故頃嘗臣事于大金。及金國鼎逸、然後朝貢之禮始廢矣。越丙子歲、契丹大擧兵、闌入我境、橫行肆暴。至己卯、我大國遣帥河稱、扎臘領兵來救、一掃其類。小國以蒙賜不貲、講投拜之禮、遂向天盟告、以萬世和好爲約、因請歲進貢賦所便。弊邑はもともと海外の小邦であります。歴史が始まって以来、必ず事大の礼を行い、そうして国家を保ってきました。それゆえ、近頃かつて大金に臣事していましたが、金国が敗亡するに及んで初めて朝貢の礼を取りやめました。(しかし)丙子の年(一二一六)を過ぎると、契丹が大挙派兵してわが境域内に乱入して好き勝手暴行しました。己卯(一二一九)になると、わが大国(元)が軍帥の河稱と扎臘を派遣して領兵が助けに来てくださり、奴らを一掃してくださいました。小国にとってその大恩はつぐなえないほどであります。 — 高麗史、世家第二十三、高宗十九(一二三一)年冬十一月 モンゴル帝国の高麗支配時に忠烈王がモンゴル皇帝に陳情した書面では、高麗は「海外の小邦」であり、有史以来、必ず「事大の礼」を行って臣事し、大国に対して常に「朝貢の礼」を行ってきたことが力説されている。
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