女真が高麗王朝を「父母之国」あるいは「父母之邦」と称した問題
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「函普」の記事における「女真が高麗王朝を「父母之国」あるいは「父母之邦」と称した問題」の解説
著者著書記述内容鄭麟趾 『高麗史』睿宗世家二 睿宗四年(1109年)六月,女真人裊弗,史顕等出使高麗,向高麗王上奏説:昔我太師盈歌嘗言,我祖宗出自大邦,至于子孫,義合帰附。今太師烏雅束亦以大邦為父母之国。在甲申年間,弓漢村人不順太師指諭者,挙兵懲之。国朝以我為犯境,出兵征之,得許修好,故我信之,朝貢不絶。不謂去年大挙而入,殺我耄倪。置九城,使流亡靡所止帰,故太師使我来請旧地。若許還九城,使安生業,則我等告天為誓,至于世世子孫恪修世貢,亦不敢以瓦礫投于境上。 鄭麟趾 『高麗史』睿宗世家三 睿宗十二年(1117年)三月,金主阿骨打遣阿只等五人寄書高麗王曰:兄大女真金国皇帝致書于弟高麗国王。自我祖考介在一方,謂契丹為大国,高麗為父母之邦,小心事之。契丹無道,陵轢我疆域,奴隷我人民,屡加無名之師。我不得已拒之,蒙天之獲殄滅之。惟王許我和親結為兄弟,以成世世無窮之女子。 『高麗史』睿宗世家二には、睿宗四年(1109年)六月、女真の裊弗や史顕などが高麗王朝に出使した時に、高麗王に「父母之国」と上奏したと記されている。また、『高麗史』睿宗世家三には、睿宗十二年(1117年)三月、高麗王は阿骨打などから「父母之邦」という記述のある書簡を送られたとある。しかし、高麗王朝を「父母之国」あるいは「父母之邦」と呼んだという記録だけでは、函普が高麗人であることの証明にはならず、具体的な考証が必要となる。 完顔盈歌・烏雅束・阿骨打などが高麗王朝を「父母之国」あるいは「父母之邦」と称したのは、一定の理由があったとみられる。一時期、函普は高麗王朝で暮らしており、渤海統治下の諸民族が渤海人とされ、金統治下の諸民族が金人とされたように、函普も高麗人とみなされた。古代社会ではこのような広義と狭義の称を区別せず、混在して併用するのが常であり、完顔盈歌・烏雅束・阿骨打などは、函普が高麗王朝で暮らし、高麗文化の影響を受けたという側面から、広義の称において高麗王朝を「父母之国」あるいは「父母之邦」と称し、狭義の称、すなわち函普が高麗王朝統治下の女真であることを否定していない。高麗王朝を「父母之国」あるいは「父母之邦」と称したとする『高麗史』の記事の背景には一定の理由がある。『高麗史』睿宗世家二の場合、高麗王朝が女真領を占領後、東北九城を築造したといい、その東北九城の返還を要求するために女真の裊弗や史顕などを使者として高麗王朝に派遣しており、東北九城の返還を実現するため、高麗王朝を「父母之国」と呼んだ。すなわち、辞を卑しくしつつ、低姿勢を取らざるを得なかったのは、その国際的環境の緊張の要請からと考えられる。 『高麗史』睿宗世家三の場合、金軍の保州(中国語版)占領時、契丹が保州を高麗王朝に献納したことから、阿骨打は保州を獲得するため使者を派遣し、女真と高麗王朝との関係を「父母之邦」であると述べたことから、事実上、友好関係を結ぶという以上の意味はない。女真が高麗王朝を「父母之国」あるいは「父母之邦」と称したとする記録はこの二例のみであり、その後、女真が高麗王朝を「父母之国」あるいは「父母之邦」と称したとする記録はない。また、女真が高麗王朝を「父母之国」あるいは「父母之邦」と称したことに高麗人は同意しておらず、女真を「人面獣心」「貪而多詐」と称し、「夷狄」とみなしていた。宋が遼への共同攻撃に加わるため、金に使者を送ると、高麗の仁宗は宋の徽宗に医者を送り、「女真狼虎耳、不可交也」、つまり女真は狼虎耳であり、付き合うべきではないという書簡を送っており、女真を禽獣視し、同族と認識していないことは明らかであり、函普が新羅人あるは高麗人ではないことを示している。したがって、函普の出自について、狭義と広義の称から理解すべきであり、函普の狭義の称(民族)は女真である。一方、広義の族(事実上の国名)は、函普は新羅で暮らしていたため、渤海統治下の諸民族が渤海人とされ、金統治下の諸民族が金人とされたように、新羅で暮らしていた函普も新羅人とされ、その後、函普は新羅から高麗王朝に移り、高麗王朝で暮らし、高麗人という広義の称(事実上の国名)とされた。
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