女真族説
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池内宏、岡田英弘、宮脇淳子、宮家邦彦、山内弘一、宇山卓栄、豊田隆雄などは、李成桂が女真族あるいは女真族の血を引いている可能性を指摘している。室谷克実は、崔南善が著書『物語朝鮮の歴史』において李氏朝鮮の創建過程を簡素に書いたのは李成桂が女真族であることを認識していたからではないか、と述べている。宮嶋博史は、「全州李氏の一族とされるが、女真族の出身とする説もある。父の李子春は、元の直轄領となっていた咸鏡道地域の双城総管府に使える武人であった。この地域は女真族が多く住んでいた。李成桂が武臣として台頭するにあたっても、その配下の女真人の力が大きく作用した」「女直とは女真族であり、朝鮮と女真との関係は李朝の建国以後においても、格別深いものがあった。李朝を建国した李成桂の配下には、多くの女真族が含まれていた。彼が高麗末に傑出した武将としての地位を占めることができた理由の一つが、女真族の武力の吸収にあったのである」と記している。 李成桂女真族説の根拠としては次のことが挙げられる。 李氏朝鮮の第4代国王世宗(1397年5月7日~1450年5月18日)の時代に建州女真に対する侵略戦争を行い、豆満江方面に領土拡張を行い、また、東北部(咸鏡道)の開拓事業を行い、朝鮮の領土に組み込み併合するまでは、李氏一族の出身地の咸鏡道を含む朝鮮半島北部(咸鏡道・平安道)は、新羅・高麗の領土となったことはなく、女真族の領土・居住地域であり、李成桂は女真族色の濃厚な元の直轄地出身だったこと。 李成桂は女真族の酋長の李之蘭と義兄弟の契りを結んでいること(野史の記録で正史ではないが、野史だからといって誤りではない。また、彼は李成桂に臣服して戦功を立て、後開国功臣に列せられるなど特殊な関係があったことは事実である)。 李成桂の手兵が強かったのは狩猟の民で、弓矢の名手の女真族を加えていたことが大きく、李氏一族は金同不花、猛安朱胡引答忽、猛安括児牙兀難など女真族の酋長を配下に多数抱え、李氏一族が頭角を現したのは彼らの助けが大きかったこと。 李子春は吾魯思不花というモンゴル名を持ち、さらに、祖父の李椿は孛顔帖木児、李子春の同母兄の李子興は塔思不花、李子春の兄弟は完者不花、那海など李氏一族は皆モンゴル名を持っていること。 のちに15世紀になって編纂された王朝創建の偉業を称えた『竜飛御天歌』によると、李氏一族は全羅道の全州出身で古くは新羅に仕えたがやがて咸鏡道に移住した、と書かれているが、後世に潤色されて書かれているため信憑性が疑わしいこと(神道碑は李氏の遠祖を全州の大姓、穆祖をもって宜州知州となし、しかも穆祖自ら全州より宜州に移れりとは言わざるに、これには穆祖、全州より三陟に入り、後、徳源に移れりとなし、かつその遷徒の事情を示し、穆祖が170餘家の移民を従えたりというがごときも、神道碑の伝えざるところで、穆祖の元に帰したる後の佳地は、南京或いは孔州とせられずして、慶興の斡東とせられ、斡東における翼祖の危難、その危難によって赤島に遁れし前後の事情も、すこぶる詳細に叙せられている。かくのごとき穆祖・翼祖の事績とせられるものに著しき潤色が加えられている)。 李氏一族の家系図には、李氏一族のモンゴル名は完全に記載されているが朝鮮名は不完全にしか書かれていないこと。 元に仕える行政長官ダルガチは、原則としてモンゴル人か色目人が任用されて、元初期には一部の女真族がモンゴル名を持つことでモンゴル人とみなされ任用されたが、李安社はダルガチの職責を与えられ周辺の女真族の統治を任されたこと。 千戸長として女真族の統治を行っていたこと。 姓を李氏と言ってはいるが、祖先が元の家来で、元の開元路出身であること。 李成桂が王座を奪ったとき、国号は前王朝の「高麗」のままで、まず王となった。中国文化圏の人ならば、支配者の血が別の一族に入れ替わったからには、王朝交代とともに国号を変えようとするはずであるが、李成桂がそうしなかったのは、そんなことを気にしない狩猟民だったからではないかとみられる。明の洪武帝に国号を変えないのかといわれて、李成桂が「和寧か、朝鮮か。どちらがいいでしょうか」とお伺いをたて、洪武帝は「朝鮮」を選んだが、中国皇帝に選んでもらった「朝鮮」を国号としたのが李氏朝鮮であり、自国名をよその国の皇帝に決めてもらうなど、主体性がまったくない証拠であり、中国の属国と自白しているのと同じである。 岡田英弘と宮脇淳子は、「双城で高麗軍に降伏した者のなかに、ウルスブハ(李子春)というジュシェン(女直)人があったが、その息子が李成桂(朝鮮の太祖王)で、当時22歳であった」とし、『李朝実録』の冒頭『太祖実録』の内容を用いて次のことを挙げている。 『李朝太祖実録』冒頭には「太祖康献至仁啓運聖文神武大王、姓李氏、諱旦、字君晋、古諱成桂、號松軒、全州大姓也」とあり、本貫が全州李氏であること、新羅の司空李翰を始祖として、以下21代を経て李成桂に至ったとするが、第16代まではほとんど名だけが知られるにすぎず、第17代(李成桂4代の祖)からやや詳しい伝記がある。その第17代以後の祖先の活動舞台と居住地を通観すると、前16代につなげるために全羅北道全州(完山)を出発点として、東海岸の三陟から豆満江畔にわたり、そのほぼ中央に位置する咸興をもって活動の根拠地としたように書いてある。すなわち、全州李氏の出身だというのは後世の捏造であると考えられるが、情況証拠しかなく、立証する術はない。しかし、李氏朝鮮王室が全州李氏を大切に扱ったという記録もない。 李成桂の父の李子春は、高麗を東北方面からおさえるモンゴル勢力の拠点であった永興の双城総管府につかえ、千戸(千人隊長)の役職についていたが、高麗恭愍王がその5年後(1356年)にこの総管府を攻略したとき、李子春はただちに高麗に投じ、北に移って咸興を活動舞台とした。4年のち(1360年)李子春は死に、李成桂が家を継いで、東北面上万戸(万人隊長)の職についた。李成桂の活動は、まず咸興から豆満江方面におよぶ女真部族の平定、つぎに鴨緑江上流方面の女真部族、モンゴル勢力の残存するものを討伐し、やがて中央に召し出されて国都の防衛、南方の倭寇討伐にしたがった。彼の本領はどこまでも軍事にあった。 『李朝太祖実録』巻一、九頁下、には次の記事がある。「初三海陽(今吉州)達魯花赤金方卦、娶度祖女、生三善三介、於太祖、為外兄弟也。生長女真、膂力過人、善騎射、聚悪少、横行北邊、畏太祖、不敢肆。」これを訳すると、「三海陽(咸鏡北道の吉州)にいた元のダルガチだった金方卦(女真人と思われる)が、度祖(モンゴル名ブヤンテムル、三頁下、李子春の父)の娘を娶って生まれたのが三善三介で、太祖の外兄弟である。彼は女真で育ち(女真の族長になった)、腕の力が人並み外れて強く、騎射をよくし、悪い奴らを集めて、北辺に横行したが、太祖を畏れて、敢えてほしいままにしなかった」というのである。この記事を見ると、太祖も女真族としか考えられない。「外兄弟」には二つ意味があり、一つは「父の姉妹が産んだ子」もう一つは「姓が違う兄弟」である。遊牧民や狩猟民のような族外婚制をとる人たちは、姓の違う集団と結婚関係を結ぶのを習慣とするから、父の姉妹が嫁に行って産んだ従兄弟を「姓が違う兄弟」と呼ぶのである。だから、李成桂の伯母/叔母が女真の族長に嫁入って生まれたのが三善三介であるとするなら、李成桂の祖父は女真の族長と結婚関係を結ぶような別の族長であった証拠である。どちらの意味にしても、女真族の族長である三善三介が太祖李成桂の外兄弟であるというならば、太祖自身も女真族であったと考えるのが自然である。『李朝実録』は、朝鮮時代になってからの正史であるから、朝鮮王の家系について、なるべく高麗との関係を重んじるような書き方をしているが、どうしても書き残さざるを得なかったのが、この「三善三介」についての記事である。 『神道碑』、『定陵碑』、『竜飛御天歌』、『李朝実録』、『高麗史』などの李氏一族の伝承の史料解釈上、李成桂の父祖として伝えられる四祖(穆祖・翼祖・度祖・桓祖)のうち、信じうるのは父と祖父のみで、李行里は信拠に値すべき史実の伝存するものがなく、人物の存否は明言できないが、李安社は李成桂自ら根拠地を南京(渤海の南京南海府、現在の北青郡)より孔州(現在の慶興郡)に移転して事績を激しく変化させていることから、李安社は李成桂の領土拡張の理想を寄せた架空の人物であることは殆ど疑う余地がな、系譜を長くするため作為された架空の人物であり、父と祖父は事跡については創作と考えられている。桓祖は、ただわずかに信をおき得べきは、彼が双城付近の千戸としてその地の土民の間に多少の勢力を有していたことにして、その他の伝説は双城攻破の際における桓祖の功業、元への上表を裏面に包める入朝親喩、これより以前に起れる桓祖并に父祖の入朝など一として信頼に値すべきものなく、これらの伝説はことごとく抹殺せざるを得ない。『神道碑』における桓祖の記事は、病没に関する一句と「朔方道萬戸」以外はほとんど信頼に値しない。また、『神道碑』は恭愍王五年における双城修復の後三十一年、同年九月四日における桓祖の死没の後二十七年、太祖李成桂即位に先立つ五年で、『竜飛御天歌』は碑に後れること六十年にして成り、『高麗史』はさらに四年をへて撰進せられし書ならば、神道碑』とこれ等の両書の関係は明瞭で、相互の諸条の符節が合するごとくは、後者が前者を踏襲したためである。伝説・系図の制作は、『神道碑』建立の際においてせられ、鄭惣が『定陵碑』を撰する際に系図の延長、李成桂の王氏に代わるとともに穆祖の伝説の南京より孔州に移転、野人古慶源の地を侵奪して翼祖の伝説の変化、『竜飛御天歌』の編纂において穆祖・翼祖の伝説の周の祖先の伝説に擬するなど特殊の機会と必要とに応じて、その形態の変化が見られる。のちに15世紀になって編纂され、王朝創建の偉業を称えた『竜飛御天歌』及び『高麗史』は世宗の時、同一なる編者の手により成った書で、しかし『高麗史』は李成桂即位の四年、判三司事鄭道傳・政堂文学鄭惣等、はじめて高麗太祖より恭譲王にいたるまで三十七巻を撰進せし後、大宗しばしば史臣に命じて改修竄定せしめ、太祖李成桂のごときは、史官の極諫を用いずして、鄭道伝・鄭惣等の既修に関わる恭愍王以来の『高麗史』及び王申以来の史草を親覧したることなれば、これらの史書及び文宗元年上進せられし今の『高麗史』に見えたる李朝の祖先に関する記事に曲筆ないし潤色の跡ありと考えられる。「高麗時代に女真族と認識した跡形がない」「名門家と結婚している」のは、女真族であることを偽り高麗人を装い、祖父以前は架空の人物で李朝の祖先に関する事跡は創作であるためであると考えられている。李成桂の祖父の後妻趙氏が双城総管の女、度祖が元の宣命を受けて亡父の職を襲げり、その配朴氏が斡東の百戸の女、塔思不花没後の継承の争議に関して元の裁断を仰いだというのは、四祖の伝説が双城と元とに結合させられることより派生したもので何等措信の価値あるものにあらずと考えられている。
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