女真族説とは? わかりやすく解説

女真族説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 08:44 UTC 版)

李成桂」の記事における「女真族説」の解説

池内宏岡田英弘宮脇淳子宮家邦彦山内弘一宇山卓栄豊田隆雄などは、李成桂女真族あるいは女真族血を引いている可能性指摘している。室谷克実は、崔南善著書物語朝鮮の歴史』において李氏朝鮮創建過程簡素に書いたのは李成桂女真族であることを認識していたからではないか、と述べている。宮嶋博史は、「全州李氏一族とされるが、女真族出身とする説もある。父の李子春は、元の直轄領となっていた咸鏡道地域双城総管府使える武人であった。この地域女真族多く住んでいた。李成桂武臣として台頭するにあたっても、その配下女真人の力が大きく作用した」「女直とは女真族であり、朝鮮女真との関係は李朝建国以後においても、格別深いものがあった。李朝建国した李成桂配下には、多く女真族含まれていた。彼が高麗末に傑出した武将として地位占めることができた理由一つが、女真族武力吸収にあったのである」と記している。 李成桂女真族説の根拠としては次のことが挙げられる李氏朝鮮の第4代国王世宗1397年5月7日1450年5月18日)の時代建州女真対す侵略戦争行い豆満江方面領土拡張行いまた、東北部咸鏡道)の開拓事業行い朝鮮領土組み込み併合するまでは、李氏一族出身地咸鏡道を含む朝鮮半島北部咸鏡道平安道)は、新羅高麗領土となったことはなく、女真族領土居住地域であり、李成桂女真族色の濃厚な元の直轄地出身だったこと。 李成桂女真族酋長李之蘭義兄弟契り結んでいること(野史記録正史ではないが、野史だからといって誤りではない。また、彼は李成桂臣服して戦功立て、後開国功臣に列せられるなど特殊な関係があったことは事実である)。 李成桂の手兵が強かったのは狩猟の民で、弓矢名手女真族加えていたことが大きく李氏一族は金同不花、猛安胡引答忽、猛安括児牙兀難など女真族酋長配下多数抱え李氏一族頭角現したのは彼らの助け大きかったこと。 李子春は吾思不花というモンゴル名を持ち、さらに、祖父李椿は孛顔帖木児李子春同母兄の李子興は塔思不花、李子春兄弟は完者不花、那海など李氏一族は皆モンゴル名を持っていること。 のちに15世紀になって編纂された王朝創建偉業称えた竜飛御天歌』によると、李氏一族全羅道全州出身古く新羅仕えたがやがて咸鏡道移住したと書かれているが、後世潤色されて書かれているため信憑性疑わしいこと(神道碑は李氏遠祖全州の大姓、穆祖をもって宜州知州となし、しかも穆祖自ら全州より宜州移れりとは言わざるに、これには穆祖全州より三陟入り、後、徳源に移れりとなし、かつその遷徒の事情示し穆祖170餘家の移民従えたりというがごときも、神道碑の伝えざるところで、穆祖元に帰したる後の佳地は、南京或いは孔州とせられずして、慶興の斡東とせられ、斡東における翼祖危難、その危難によって赤島遁れ前後事情も、すこぶる詳細に叙せられている。かくのごとき穆祖翼祖事績せられるものに著しき潤色加えられている)。 李氏一族家系図には、李氏一族モンゴル名は完全に記載されているが朝鮮名不完全にしか書かれていないこと。 元に仕え行政長官ダルガチは、原則としてモンゴル人色目人任用されて、元初期に一部女真族モンゴル名を持つことでモンゴル人みなされ任用されたが、李安社ダルガチ職責与えられ周辺女真族統治任されたこと。 千戸長として女真族統治行っていたこと。 姓を李氏と言ってはいるが、祖先が元の家来で、元の開元出身であること。 李成桂王座奪ったとき、国号前王朝の「高麗」のままで、まず王となった中国文化圏の人ならば、支配者の血が別の一族入れ替わったからには王朝交代とともに国号変えようとするはずであるが、李成桂がそうしなかったのは、そんなことを気にしない狩猟民だったからではないかとみられる。明の洪武帝国号変えないのかといわれて、李成桂が「和寧か、朝鮮か。どちらがいいでしょうか」とお伺いをたて、洪武帝は「朝鮮」を選んだが、中国皇帝選んでもらった朝鮮」を国号としたのが李氏朝鮮であり、自国名をよその国の皇帝決めてもらうなど、主体性まったくない証拠であり、中国属国自白しているのと同じである。 岡田英弘宮脇淳子は、「双城高麗軍降伏した者のなかに、ウルスブハ(李子春)というジュシェン(女直)人があったが、その息子李成桂朝鮮太祖王)で、当時22歳であった」とし、『李朝実録』の冒頭太祖実録』の内容用いて次のことを挙げている。 『李朝太祖実録冒頭には「太祖康献至仁啓運聖文神武大王、姓李氏、諱旦、字君晋、古諱成桂、號松軒全州大姓也」とあり、本貫全州李氏であること、新羅司空李翰始祖として、以下21代を経て李成桂至ったとするが、第16代まではほとんど名だけが知られるにすぎず、第17代李成桂4代の祖)からやや詳しい伝記がある。その第17代以後祖先活動舞台居住地通観すると、前16代につなげるために全羅北道全州完山)を出発点として、東海岸三陟から豆満江畔にわたり、そのほぼ中央位置する咸興をもって活動根拠地としたように書いてある。すなわち、全州李氏出身だというのは後世捏造であると考えられるが、情況証拠しかなく、立証する術はない。しかし、李氏朝鮮王室が全州李氏大切に扱ったという記録もない。 李成桂の父の李子春は、高麗東北方面からおさえるモンゴル勢力拠点であった永興双城総管府につかえ、千戸千人隊長)の役職についていたが、高麗恭愍王その5年後(1356年)にこの総管府を攻略したとき、李子春はただちに高麗投じ、北に移って咸興活動舞台とした。4年のち(1360年李子春死に李成桂が家を継いで東北面上万戸(万人隊長)の職についた李成桂活動は、まず咸興から豆満江方面におよぶ女真部族平定、つぎに鴨緑江上流方面女真部族モンゴル勢力残存するものを討伐し、やがて中央召し出され国都防衛南方倭寇討伐したがった彼の本領どこまでも軍事にあった。 『李朝太祖実録巻一、九頁下、には次の記事がある。「初三海陽今吉州)達魯花赤金方卦、娶度祖女、生三三介、於太祖、為外兄弟也。生長女真膂力過人、善騎射、聚悪少、横行北邊、畏太祖、不敢肆。」これを訳すると、「三海陽(咸鏡北道吉州)にいた元のダルガチだった金方卦(女真人思われる)が、度祖モンゴルブヤンテムル、三頁下、李子春の父)の娘を娶って生まれたのが三善三介で、太祖の外兄弟である。彼は女真育ち女真族長になった)、腕の力が人並み外れて強く騎射をよくし、悪い奴ら集めて北辺横行したが、太祖畏れて、敢えてほしいままにしなかった」というのである。この記事を見ると、太祖女真族としか考えられない。「外兄弟」には二つ意味があり、一つは「父の姉妹産んだ子」もう一つは「姓が違う兄弟」である。遊牧民狩猟のような族外婚制をとる人たちは、姓の違う集団結婚関係を結ぶのを習慣とするから、父の姉妹が嫁に行って産んだ従兄弟を「姓が違う兄弟」と呼ぶのである。だから、李成桂伯母叔母女真族長嫁入って生まれたのが三善三介であるとするなら、李成桂祖父女真族長結婚関係を結ぶような別の族長であった証拠である。どちらの意味にしても女真族族長である三善三介太祖李成桂の外兄弟であるというならば太祖自身女真族であった考えるのが自然である。『李朝実録』は、朝鮮時代になってからの正史であるから朝鮮王の家系について、なるべく高麗との関係重んじるような書き方をしているが、どうしても書き残さざるを得なかったのが、この「三善三介」についての記事である。 『神道碑』、『定陵碑』、『竜飛御天歌』、『李朝実録』、『高麗史』などの李氏一族伝承史料解釈上、李成桂父祖として伝えられる四祖(穆祖翼祖度祖桓祖)のうち、信じうるのは父と祖父のみで、李行里信拠値すべき史実伝存するものがなく、人物の存否明言できないが、李安社李成桂自ら根拠地南京渤海南京南海府、現在の北青郡)より孔州(現在の慶興郡)に移転して事績激しく変化させていることから、李安社李成桂領土拡張理想寄せた架空の人物であることは殆ど疑う余地がな、系譜長くするため作為された架空の人物であり、父と祖父事跡については創作考えられている。桓祖は、ただわずかに信をおき得べきは、彼が双城付近千戸としてその地の土民の間に多少勢力有していたことにして、その他の伝説双城攻破の際における桓祖功業元への上表を裏面包める入朝親喩、これより以前に起れる桓祖并に父祖入朝など一として信頼値すべきものなく、これらの伝説ことごとく抹殺せざるを得ない。『神道碑』における桓祖記事は、病没に関する一句と「朔方道萬戸」以外はほとんど信頼値しないまた、神道碑』は恭愍王五年における双城修復の後三十一年同年九月四日における桓祖死没の後二十七年太祖李成桂即位先立つ五年で、『竜飛御天歌』は碑に後れること六十年にして成り、『高麗史』はさらに四年をへて撰進せられし書ならば、神道碑』とこれ等の両書の関係は明瞭で、相互の諸条の符節合するごとくは、後者前者踏襲したためである。伝説系図制作は、『神道碑』建立の際においてせられ、鄭惣が『定陵碑』を撰する際に系図延長李成桂王氏代わるとともに穆祖伝説南京より孔州に移転野人慶源の地を侵奪して翼祖伝説変化、『竜飛御天歌』の編纂において穆祖翼祖伝説の周の祖先伝説擬するなど特殊の機会と必要とに応じて、その形態の変化見られる。のちに15世紀になって編纂され、王朝創建偉業称えた竜飛御天歌』及び『高麗史』は世宗の時、同一な編者の手により成った書で、しかし『高麗史』は李成桂即位の四年、判三司鄭道傳政堂文学鄭惣等、はじめて高麗太祖より恭譲王にいたるまで三十七巻を撰進せし後、大宗しばしば史臣命じて改修竄定せしめ、太祖李成桂のごときは、史官極諫用いずして、鄭道伝・鄭惣等の既修関わる恭愍王以来の『高麗史』及び王申以来の史を親覧したることなれば、これらの史書及び文宗元年上進せられし今の『高麗史』に見えた李朝祖先に関する記事曲筆ないし潤色の跡ありと考えられる。「高麗時代女真族認識した跡形がない」「名門家と結婚している」のは、女真族であることを偽り高麗人装い祖父以前架空の人物李朝祖先に関する事跡創作であるためであると考えられている。李成桂祖父後妻趙氏双城総管の女、度祖が元の宣命受けて亡父の職を襲げり、その配氏が斡東の百戸の女、塔思不花没後継承争議に関して元の裁断仰いだというのは、四祖の伝説双城と元とに結合させられることより派生したもので何等措信価値あるものにあらずと考えられている。

※この「女真族説」の解説は、「李成桂」の解説の一部です。
「女真族説」を含む「李成桂」の記事については、「李成桂」の概要を参照ください。

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