記述内容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/02 04:13 UTC 版)
本文に記されているのは、「山川に見るところの異物」の情報と図である。全ての本文に対し、彩色された図がつけられている。目撃情報の集積された別人の書き物から取捨をし執筆した旨が序にもあり、実際に見られたされたものであると見られるが、同様の情報を記した文献との照らし合わせは、秋田で生まれたという「鬼子」の情報と『津軽編覧日記』の記事が類似しているなどが指摘されているが、一部をのぞいて進んではいない。当時知られていた文献上の生物名などとの同定を経て名称が付与されているものは少なく、名称が本文中に説かれていないものが多い。名称が説かれているものについては、天毒鬼のように「天毒鬼 一本作寄又作蛇(一本は寄に作り又は蛇に作る)」などと諸本での文字表記の揺れを示している例も見られるが、生物に関する文献に見られる記述なのか、作者自身が本書を書くにあたって参考とした原本に複数の写本や記述があったものなのかは不詳である。 本文には情報として地域名(国名、村名、山名、屋敷名など)、体色や寸法などの生態、目撃された年月日などが主に記されている。ただし、情報の記載基準はまちまちであり、年月日の無記載のものも多くある。記されている年月日は、延享(1744年~)年間から宝暦(1751年~)年間にかけてのものが確認でき、序にある三十年という文字とも一致する。 文章の表記法はすべて漢文で書かれている。序文には送り仮名や訓読のための点が付されているが、本文には句点も無く、送り仮名が何か所かわずかに使われているのみである。例外として、霊蝶虫の本文に記されている虫の災いをふせぐとされる和歌は通常の平仮名まじりの和文で書かれている。
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記述内容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/16 15:08 UTC 版)
8月19日、浜崎の牢に入れられる。 8月21日、「牢中の自分も冷えが堪えるが牢番(徳山藩においては穢多のこと)はもっと夜冷えに堪えるかもしれない」と記述。 8月28日、白洲に引き出され取調べを受ける。 9月6日、9月2日に河田家の家名断絶が言い渡され、妻や両親が富山門の東に偶居になったことを知る。その衝撃からか9月14日まで日記が中断。 9月14日、日記を再開。 9月22日、山口から奇兵隊150人が徳山藩領にやって来たことが知らされ、幕府による第一次長州征伐が差し迫っていることの緊迫感が伝えられる。 10月7日、晴天の日が続き、秋の豊作が見込めるとあって「毎夜春挽之声聞へ夥敷候得共、我心中之憂止時無之悲哉」と記述。 10月11日、一度御役御免になった富山源次郎が復役したことが知らされる。この頃から穢多に関する記述が増えてくる。具体的には、穢多の添番・藤二郎から茹で芋を馳走されたこと、穢多・滝二郎から香煎を馳走されたこと、穢多・新酒を馳走されたこと、穢多・泉助より汁一杯を馳走になったこと、穢多・兵吉よりの芋粥馳走などである。また、身の振り方についての情報も、牢番である穢多を通じてしか入らなくなる。 10月14日、穢多・泉助から兄から依頼された伝言を聞かされ、次第に気を弱くしていた佳蔵は「有り難い」と涙にむせぶ。 10月22日、牢番から筆と紙を手渡される。 10月23日、穢多の庄左衛門から柿3つ、穢多・利吉から餅1つを馳走される。その時の心中について「可漸斯落泊スレハ所詮心鄙劣飲食へ案思外無之、可嘆々々」と記述。 10月24日、井上唯一と共に処刑される。
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記述内容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 05:13 UTC 版)
「Common User Access」の記事における「記述内容」の解説
CUAは、ダイアログボックスや、メニュー、キーボードショートカットといった要素の操作についての標準を含んでおり、CUAを全く読んだことのない多数のプログラマによって、今日でも実装されるほど大きな影響力を持つようになった。 こうした標準の一部は、Windowそのものや、MS-DOS 5のフルスクリーンテキストエディタEDITのようなDOSベースのアプリケーションでも見ることができる。CUAの特徴としては 下記のようなものがある。 すべてのアプリケーションは、マウスとキーボードのいずれでも操作できなければならない メニューは、[F10] により選択されたり非選択になったりする。 メニューは Altキーと、メニューの名前の中の下線の引かれた文字を押すことで開く。 パラメータが必要なメニューのコマンドには、リーダーがつく。 オプションの要求する場合には、二番目のウィンドウを用いる (よくダイアログボックスと呼ばれるもの)。 オプションは、ノートのタブを用いてセクションに分割される。 ダイアログボックスのフィールド内の移動はカーソルキーで行う。フィールド間の移動はTabキーを押すことで行う。[Shift]+[Tab]で戻る。 ダイアログボックスは、[ESC]キーを押すと選択され、変更を破棄する"キャンセル"ボタンと、[Return]キーを押すと選択され、変更を受け付ける'OK'ボタンを持つ。 アプリケーションは、メニューバーの最後の位置にあるHelpメニューからアクセスできるオンラインヘルプを持ち、コンテキストを意識したヘルプは[F1]で呼び出すことができる。 最初のメニュー項目は'File'と呼ばれファイルを操作する命令(新規、開く、保存、別名保存)や、プログラム終了の命令を含み、'Edit'メニューは取り消し、やり直し、切り取り、削除、貼り付けコマンドを含む。 '切り取り'コマンドは[Shift]+[Del]、コピーは[Ctrl]+[Ins]、貼り付けは[Shift]+[Ins]である。 ウインドウのサイズは、8方向の境界の一つをドラッグすることで変更できる。 CUAはDOSアプリケーションをカバーするだけでなく、OS/2のテキストモードとPresentation Manager両方のGUIや、Systems Application Architectureに準拠した IBMのメインフレーム同様、WindowsのConsistent User Interface標準 (CUI) の基礎となった。 CUAは単に DOSアプリケーションを合理的なものにする試み以上のものであり、マイクロコンピュータからメインフレームまでの IBMのコンピュータの範囲全体のソフトウェアとハードウェアの機能をまとめて、合理的にものにし、調和させようとする大規模な計画の一部であった。おそらく、完全には成功しなかった理由の一部はこれであろう。 CUAの第3版は、オブジェクト指向ワークプレースを導入し、最初の2版から、急進的な飛躍を遂げた。第3版ではユーザーの操作において注目する点を、ユーザーが操作する文書や画像などといったデータ中心に切り替えた。これまでのアプリケーション中心の注目点は、(プログラムを操作してドキュメントの作業するのではなく)プログラムを使ってドキュメント上で作業するというユーザーの期待に応え、コンピュータをより使いやすくする意図で、削除された(オブジェクト指向ユーザインタフェース参照)。
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