マイクロコンピュータとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 情報 > コンピュータ > コンピュータ > マイクロコンピュータの意味・解説 

マイコン

別名:マイクロコンピュータ
【英】microcomputer

マイコンとは、CPUメモリ1つLSIチップ集積した回路のことである。

マイコンとは元々「マイクロコンピュータ」の略称で、文字通り、超小型コンピュータ意味するのものだった。「パソコン」の用語が広まる以前は、個人レベル使用するコンピュータシステム指してマイコンと呼んでいた。ここから派生して、マイコンに「マイコンピュータ」(my computer)という意味が付け加えられた。

また、最近では家電製品などの制御用いられる組み込み小型コンピュータをマイコンと呼ぶこともある。この場合はマイクロコンピュータとともにマイクロコントローラの意味含まれている。

「IT用語辞典バイナリ」の他の用語
コンピュータ:  コンピュータ  クライアント  マイクロATX  マイコン  ノイマン型コンピュータ  PC  PC/AT互換機

マイクロコンピュータ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/07 10:06 UTC 版)

マイクロコンピュータ英語: microcomputer)は、CPUとしてマイクロプロセッサを使用したコンピュータであり[1]1970年代当時の(メインフレームや)特にミニコンピュータと比較して相対的に小さかったので(miniよりも小さいという意味で、英語圏でmicroと形容され)その意味でもmicrocomputerと呼ばれた。初めて個人や一般家庭が所有できるようになったコンピュータである。アメリカで誕生し、世界各地に広まり、1970年代や1980年代に多くの機種が販売された。当時の日本の愛好家らは略してマイコンと呼んだ[注釈 1]

マイクロコンピュータの性能は当初は比較的低いものだったが、毎年のように性能が向上した機種が発表され、1980年代前半にはサイズよりもむしろ"個人で所有できる"ことや"個人が実生活や実務で活用することができる(くらいに性能が向上した機種)"という面を強調してメーカーが『パーソナルコンピュータ』と呼んだり広告する機種が増えてゆき、世間で"マイクロコンピュータ"と"パーソナルコンピュータ"の呼称の両方が使われた時代を経て、1980年代後半から1990年代前半にかけてパーソナルコンピュータと呼ばれることが優勢となっていった経緯があり、1980年代などはひとつの機種をメーカー側は"パーソナルコンピュータ"と呼び、愛好家らはその機種を旧来通りの分類名で"マイクロコンピュータ"(マイコン)と呼ぶという現象も起きていたので、"マイクロコンピュータ"と"パーソナルコンピュータ"の境界ははっきりと引けるわけではない。1980年代のマイクロコンピュータはマイクロコンピュータでもありパーソナルコンピュータでもあった。そして、1970年代のマイクロコンピュータも(当時はパーソナルコンピュータとは呼ばれていなかったのだが)、近年の感覚では"パーソナルコンピュータの一種"(パーソナルコンピュータの初期段階)と捉えられるようになっている。

日本では長いカタカナ名称は短縮することが好まれ、1970年代から1980年代にかけてマイコンと呼ぶことが一般的で、1980年代中期ころから1990年代前半ころはマイコンとパソコンの呼称が並行的に使われ、1990年代前半から中期以降はパソコンと呼ぶことが優勢となった[注釈 2]

この項目では、主に1970年代の(および1980年代の)マイクロコンピュータと呼ばれたコンピュータについて解説する。1980年代の解説は、パーソナルコンピュータの項目と重なる部分も多いが、そうした説明は不可避であるので理解いただきたい。

歴史

マイクロコンピュータ以前

1968年から1971年ごろにヒューレット・パッカードから"calculator" (計算機)という分類名で発売されたHP9100A/BやHP9830Aは、TTLを用いて動作するもので、まだマイクロプロセッサを使用していなかった(その意味ではマイクロコンピュータではない)が、後に登場するマイクロコンピュータとほぼ同様の水準のプログラム能力を持っていた。HPがこれを"calculator"と呼ぶことにしたのは、もし"computer"と呼ぶと "IBMのコンピュータと似ていないという理由で拒絶する人がいるだろう"と考えたからだった。HP 9100Aは1968年にサイエンス誌上の広告で「パーソナル・コンピュータ」と称された[2]が、この広告はすぐに取りやめられた。1968年のHP9100Bは、基本的な条件ステートメント(IF文)、ステートメントの行番号、ジャンプステートメント(goto文)、変数として使用することの出来るレジスタ、および原始的なサブルーチン機能を持っていた。そのプログラム言語はさまざまな面でアセンブリ言語と類似していた。1971年のHP9830Aは、より多くの機能を追加しBASIC言語も搭載し、テープストレージと小さなプリンタを持っていた。ただしディスプレイは1行に制限されていた[3]

1970年にCTC社(後のデータポイント社。英語版)が開発したDatapoint 2200については、マイクロコンピュータ"直前"のコンピュータとして言及しておく価値がある。マイクロプロセッサを含まないものの、Intel 4004のプログラム命令セットと、Intel 8008を基にしたカスタムTTLロジックを使用し、システムはおおむね8008を含んでいるかのように動作する。これは、もともとCTCがインテルに開発を委託したマイクロプロセッサ "コードネーム1201"(のちのIntel 8008に相当)を搭載するはずだったが、インテルの開発が遅れたうえに20個ものサポートチップが必要なものだったので、CTCがそれを拒否し、代わりにTTLで実装したためである[4]。したがって本機は言うなれば、計画が狂い"最初のマイクロコンピュータ"になりそこねたコンピュータである。

1971年にリリースされたKenbak-1も、Datapoint 2200同様に、マイクロプロセッサを含まずTransistor-transistor logicを用いたが、ほとんどの場合マイクロコンピュータのように機能した。教育用、趣味用のツールとしてマーケティングされたが、商業的には成功せず、発表後すぐに生産が中止された。

最初のマイクロコンピュータ
Micral

1973年にフランスのR2E社から発表され販売されたMicralは、Intel 8008で動作するコンピュータで、マイクロコンピュータの定義を通常どおり"マイクロプロセッサをCPUとして使用しているコンピュータ"とすると、厳密な意味で、そして販売台数が多く実際に利用者が多かったという意味で、最初のマイクロコンピュータである。しかもキットではなく、完成品として販売された。"PDP-8より安価なシステムを" という目標を掲げて開発されたもので、販売価格がわずか8500フランス・フランと安価に抑えられ、(資料により数字が異なるが)販売台数は9万台から10万台におよんだ[5]。プログラミングはTTYモデムを介して行うものだった。ただし、不思議なことに英語圏や日本では当時その存在がほとんど知られていなかった[注釈 3]

1972年、日本の企業ソードが8008を使ったSMP80/08を試作したが、これは実用化には至らなかった。ソードは、1974年、同年初頭に発表された8080を採用したSMP80/Xシリーズを同年5月のビジネスシヨウで発表した。情報処理学会コンピュータ博物館サイトでは『個人レベルのコンピュータではなかったが,「コンピュータの大衆化」へ向けての大きな第一歩』と評している[6]。 Micralと並び、SMP80/Xも、マイクロプロセッサをベースとした最初期の商用完成品システムであるとされることがある。

マイクロコンピュータのコレクション。プロセッサ・テクノロジーSol-20(最上段の右)、MITSAltair 8800(上から二段目の左)、TVタイプライター(上から三段目の中央)、Apple I(棚から外れた右)
アメリカでの本格的な始まり

初期のマイクロコンピュータはほぼすべて、基本的に、一枚の基板状のものか、前面に入力用スイッチと出力用ランプを持つ"箱"であった[注釈 4]。 使用者は、プログラムを書き使用するために2進数と機械語を理解する必要があった。これらの「スイッチの箱」形式のマイクロコンピュータの中で、MITSAltair 8800(1975年)は間違いなく最も有名であった。初期の簡潔なマイクロコンピュータのほとんどは電子キット(部品が袋に多数詰まった袋。システムとして使うにははんだ付けしなければいけないもの)として販売された[7]。 最初期のありがちなスペックでは、たった256バイトRAMしか持たず、入出力装置はスイッチとインジケータライトのみであった。

ラジオ・エレクトロニクス』(R-E誌)の1974年7月号の巻頭特集記事でジョナサン・タイタスが設計したMark-8(マークエイト)が掲載された。これはIntel 8008をCPUとして使うもので、その記事で読者は自分でMark-8を組み立てることが想定されており、回路基板のレイアウトと組み立て手順の書かれた小冊子を5ドルで提供することも書かれおり、基板は50ドルで読者に提供する準備もされていた。つまりMark-8は、冊子と基板を購入し、冊子の説明を読んで自分で電子部品を買い集めてはんだづけして組み立てるマイクロコンピュータだった。

Intel 8080搭載のAltair 8800
Altair 8800

MITS社がCPUにIntel 8080を使い開発したAltair 8800がホビイスト向け雑誌『ポピュラーエレクトロニクス』1975年1月号(1974年12月発売)に掲載され、通信販売される形で登場し、最初の2〜3週間で4,000台を超える注文が殺到。これが(アメリカでは)商業的にも成功した最初のマイクロコンピュータとなった[注釈 5]。Altairは当時のホビイストらに強烈な印象を与え、コンピュータ制作への興味を喚起する上で重要な役割を果たしたと言われる。マイクロプロセッサをCPUに使うコンピュータを作りたい、という欲望をかきたて、実際それが次々と制作されてゆくことになった。また、Altair向けにBASIC言語を移植することを若いポール・アレンビル・ゲイツが請け負い、大きな売上となり、マイクロソフトの成功につながることになった。

Altair 8800の系譜
IMSAI 8080

1975年12月には、IMSAI社(IMS Associates, Inc)からIMSAI 8080が発売された。IMSAI 8080のCPUはAltairと同じくIntel 8080で、Altairと同様のS-100バスを持ち、筐体もAltair同様に箱型だった。IMSAI 8080は "史上初のクローンコンピュータ英語版"とも言われる。

1976年、プロセッサテクノロジーからIntel 8080ベースのSOL-20が発売された。こちらもAltair 8800系譜のコンピュータで、Intel 8080ベースで、キーボード一体型で、テレビ画面出力することができるものだった。

68系
(左)SWTPC6800本体 (右)純正入出力端末

1975年11月にSWTPC社が、8ビットのMotorola 6800をCPUに採用したキット形式のSWTPC 6800を450ドルで発売。構造は単純であるが、ROMに内蔵されたMIKBUGというレジデントモニタにより電源投入直後から即座にプログラムの入力が可能であるという点が、ソフトウェアのブートストラップ処理を必要とした同時代の他のマイクロコンピュータとは一線を画していた。テレビ利用の入出力用端末も純正品が275ドルで販売され、さらに任意のASCII端末も接続できた。Tiny BASICや、機能強化された4K BASICや8K BASICが使え、やがてFDOSやFLEXというDOS(ディスクオペレーティングシステム)もリリースされ使えるようになった。

Tektronix 4051 Graphics Computing System

前後するがその前月、1975年10月頃にはテクトロニクスからTektronix 4051が発売。ストレージチューブ方式の画面を備えていることが特徴の、Motorola 6800ベースのマイクロコンピュータであり、記憶装置としてテープドライブ、フロッピードライブ、ハードドライブが用意されていて、ROM-BASIC方式で標準装備のBASICは拡張版BASICで、各種ベクター描画命令を備え、描画能力に特に優れており、製品として完成しており1975年では異色の存在だった。

"65系"のApple I
Apple Iの広告

カリフォルニア州に住みHPで勤務し技術に詳しいスティーブ・ウォズニアック(ウォズ)はまだ20代なかばで、ある日ホームブリュー・コンピュータ・クラブでAltair 8800のデモとそのCPUのIntel 8080の仕様書を見て感銘を受け、自分でもコンピュータを作りたいと思ったが、お金の無いウォズはIntel 8080は買えず、それより安価なMotorola 6800でも彼のアパート家賃並みに高価だったので諦め、代わりを探し、6800の半額ほどで済むMos 6502を見つけてそれをCPUに使うと決めた。ウォズは自分のために1台作ることしか考えておらず、売るつもりは全然なかったのだが、ウォズの友人でアタリで勤務しまだ20代前半だがアイディア豊富で商売センスにすぐれたスティーブ・ジョブズがそれを商売にしようと持ちかけ、2人はアタリで管理職をしているロナルド・ウェインに相談に乗ってもらいつつ、Apple Iのキットのプロトタイプを制作し1976年7月にホームブリュー・コンピュータ・クラブで公表した。やはりそのクラブのメンバーで、地元のマウンテンビューen:Byte Shopという店を経営していたポール・テレル(en:Paul Terrell)はそのキットを見て、試しに自分の店で販売してみようと考えてまず50セットを注文し、これが設立したばかりでまだペーパーカンパニーにすぎなかった"Apple社"の最初の売上となり、ジョブズ自宅のガレージで"生産"されることになり、Apple Iは総計で(正確な数は不明だが)175〜200セットほど販売されたとされている。Apple Iのキットはメイン基板、CPU、RAM、ROM(簡単なモニタプログラム書き込み済み)を含んでいた。だがディスプレイを接続するための回路を自作しなければならず、キーボードも、電源も、ディスプレイも、筐体(メインボードを入れる箱)も、ユーザ自身が別途探して用意しなければならなかった。

およそ1971年から1976年までの期間を「マイクロコンピュータの第一世代」と呼ぶことがある。第一世代のコンピュータは自分ではんだづけをしなければ動かなかった。こういうコンピュータをアメリカでは正式には 「Homebrew computer ホームブリューコンピュータ」と呼んだ。日本語で言えば"自家製コンピュータ"といった意味である。"ホームブリュー"はもとはビールなど酒を家庭で自家醸造することを主に指した語で、20世紀なかばの電子工作雑誌では家庭で電子装置を自作することをhomebrewingと呼び、その延長線上の行為としてhomebrew computerと呼んだのである。Altair 8800を企画記事で紹介したポピュラーエレクトロニクス誌が、Altairをhomebrew computerと頻繁に呼んでカテゴリ名として確立・定着し、ホームブリューコンピュータ・クラブの設立とそのクラブの影響力の大きさにより、用語はさらに定着した。また「DIYコンピュータ」とも言った。「第一世代」のマイクロコンピュータは、雑誌の特集記事でDIYコンピュータの記事を読み自分で部品を買い集めてはんだ付けをして組み立てるか、あるいはキットを購入してやはりはんだ付けをして組み立てなければならなかった。別の言い方をすると、基本的に完成品では売られていなかった。そして機械語を打ち込んで使わなければならないものだった[注釈 6]

Apple IIデータレコーダとゲーム用コントローラ

Apple Iのようにキット品ではんだ付けしなければシステムが動かず、組み立ててもツギハギの状態では、コンピュータを実用目的で使いたい地元の自営業者(あくまで事務的計算にコンピュータを使いたい人々、コンピュータマニアではない普通の人々)には評判が悪かったので、ジョブズらは次に、キーボードや電源も最初からセットにして"製品らしい"コンピュータを販売することを思いつき、翌1977年にはApple IIを発売。さらにジョブズはVisicalcの開発者ダン・ブリックリンとの商談でApple IIを安く提供する代わりにApple II向けにVisicalcを書いてもらうことに成功。この表計算ソフトVisicalcがApple IIのキラーアプリケーションとなり、Apple IIはロングセラーとなり数百万台も売れてゆくことになった。表計算ソフトが、マイクロコンピュータをコンピュータ愛好家の趣味的"遊び道具"から"ビジネス・ツール"に変えた。

1977年にはコモドール社がCommodore PET(日本国内の名称はPET 2001)を発売、ラジオシャック社はTRS-80を製造開始しタンディコーポレーション経由で販売。TRS-80も、後期モデルであるModel IIIやModel IVではVisicalcを動かすことができるようになった。

Apple IIやCommodore PETやTRS-80のような1977年以降のマイクロコンピュータを「第二世代のマイクロコンピュータ」とも呼ぶ。第ニ世代は第一世代とは異なり、はんだ付けや電子工作の技能が不要で、はるかに使いやすかった。モニタ(スクリーン)テレビ受像機と接続することができ、文字や数字をビジュアルに操作できるようになった。プログラミングは高水準言語のBASICでできるようになった。これらの機能は、ミニコンピュータではすでに一般的だったが、それがマイクロコンピュータでも使えるようになったのだった。 多くのコンピュータメーカーは中小企業向けのマイクロコンピュータを開発した。1979年には、クロメンコプロセッサ・テクノロジーIMSAIノーススター・コンピューターズSWTPC、オハイオ・サイエンティフィック英語版、アルトス・コンピュータ・システムズ 英語版モロー・デザインズなどの多くの企業が、自力で問題を解決する能力のあるパワーユーザーやコンサルティングファームに向けて、会計、データベース管理、文書作成などのシステムを製造した。これにより、ミニコンピュータリースタイムシェアリング・サービスの利用が困難であった企業にも、専任の運用担当者を雇うことなく、業務機能の自動化を図る機会が与えられたのである。この時代の代表的なシステムは、S-100バスを使用し、Intel 8080またはZilog Z80といった8ビットプロセッサを搭載し、OSにはCP/Mまたはそのマルチユーザー版であるMP/Mを用いていた。

日本国内
NECのTK-80
TK-80 BS COMPO。筐体内部にTK-80が入っている。
"トレーニングキット"から予想外に生まれたマイクロコンピュータ

一方日本では、日本電気(NEC)が8080互換CPUを開発・製造したが、"マイクロプロセッサ"なるものが何なのかまだ理解されていなかった日本ではまったく売れず、それを売るために1976年に"トレーニングキット"[注釈 7]TK-80を発売。(NECの予想を超えて)TK-80は1977年10月までに17,000台、1978年10月までに26,000台売れた[8]。NEC側はあくまで企業内の技術者向けの8080互換CPUテストキットとして販売したつもりだった[注釈 8]が、購入者らの多くが考えたことはメーカー側の想定を超えており、個人として購入してTK-80自体をコンピュータらしくつかうこと(実用計算や制御などに使うこと)を試みる人が大半で、やがてプログラムの保存・読み出しにテープレコーダをデータレコーダとして接続するだけでなく、自作回路を増設してキーボードやディスプレイなどを独自につける猛者や、それのキットを組み合わせて(NECに断りもなく)サードパーティとしてセット販売する業者なども現れたので、NEC側もその状況を看過しているわけにはいかないと判断、メーカーとして正規品をセット販売することにし、キーボードとBASIC言語のROMを追加するキット「TK-80 BS[注釈 9]」を1977年に、そしてそれとデータレコーダと筐体までセットにした「TK-80 BS COMPO」を販売することになった。こうしてTK-80発売当初のNECの意図を超えて、8080互換CPUを搭載しキーボードやデータレコーダが一体化されBASIC言語が動くコンピュータが日本で誕生することになった。

Z80搭載
シャープのMZ-80K

シャープの電子部品事業部門が1978年12月に、Intel 8080より高性能のZilog Z80を搭載したMZ-80Kの出荷を開始。発売当初、日本のマイクロコンピュータ市場のおよそ半分を占める市場占有率を誇り、一人勝ちの状態で多くのファンを得た。シャープのMZはCommodore PETを参考にしつつもシャープが独自の工夫をふんだんに盛り込んだマシンで、PET同様にキーボード・ディスプレイ一体型を採用し、BASICはCommodore BASICを参考にしつつも独自仕様のS-BASICを開発。そして最大の特徴は「クリーン設計」を謳い、ROMに高級言語やシステムウェアの大半を書き込んでおかずデータレコーダから起動時にロードする方式を採用したことである。ROMに書き込まないことで変更の自由度を高め、カセットテープ形式のBASICを数種類、インタプリタだけでなくコンパイラも、さらには他のプログラミング言語も、サードパーティ製も含めて選べ、あるいは言語をロードせずいきなりゲームソフトを機械語でロードして楽しんだり、あるいは深く探求すれば自分でBASIC処理系を一部改編して楽しむことすらできるなど、楽しみ方の選択肢が多いことを気に入るファンは多く、以降MZ-80シリーズの機種が続々とリリースされてゆくことになった。

NECのPC-8001

1979年9月にNECが、Z80を搭載したPC-8001を発売。TK-80とBASIC StationやCompoなどで得た経験やファン層を活かし、こちらはROM-BASIC方式でMS BASICを搭載したもので、(シャープのMZ-80シリーズがホビイスト好みのコンピュータだったのに対し)オフィスで使う人々を購入者として意識し、"製品らしい"筐体デザインや周辺機器を採用し、名称もPersonal Computerから頭文字をとった「PC」と番号を組み合わせて製品名とした。だが、愛好者らはあいかわらずマイクロコンピュータやマイコンと呼んでいた。完成度が高いのに価格はリーズナブルで、販売が伸び、以降、NECのマイクロコンピュータが優勢となってゆくことになった。

IBM PCと、事務用途のマイクロコンピュータ

メインフレーム界の王者IBMが、自社のメインフレームやミニコンなどマルチユーザ(複数のユーザがアクセスするコンピュータ)のカテゴリと区別するために「Personal Computer パーソナルコンピュータ」という用語を使いつつ、それまでの8ビットCPUより若干性能の良いIntel 8086系列のCPUを搭載したIBM PCを1981年にリリースし、IBMブランドに対して企業勤めのビジネスマンが抱くイメージ、IBMの販売チャネル、さらに同年に表計算ソフトVisiCalcのIBM PC版、次いでより使いやすい表計算ソフトLotus 1-2-3が用意されたことが効果を発揮しよく売れ、その結果 "Personal Computer"とその略語の"PC"が本格的に使われるようになった。IBM PCは互換機が次々と登場したので最初はPC/AT互換機を指し、結局、「パーソナルコンピュータ」は、(IBM-PCのように)表計算やワープロソフトなど事務で使うソフトウェアが十分動くくらい処理能力が高いマイクロコンピュータを指すようになったが、IBM-PCのイメージの影響が残り、どちらかというと「オフィス(事務所)で仕事で使うコンピュータ」というイメージになりがちになり、当時のアメリカではそれと対比する形で "家庭で使うマイクロコンピュータ" を指すためには「ホームコンピュータ」なる用語を使うようになっていった。そこには、オフィス / 家庭 という対比がある。

ホビーコンピュータ ≠ ホームコンピュータ
コモドール64(1982年発売)

上で説明したように、1980年代には、IBMがオフィスでシングルユーザ方式で事務仕事で使うコンピュータをPersonal Computerと呼び、その大きな市場を開拓していった一方で、同じく1980年代に、もうひとつの巨大市場である一般家庭をターゲットとした製品開発が行われるようになった。

なお、ホームコンピュータは、ホビーコンピュータ(あるいはDIYコンピュータ、ホームブリューコンピュータ)とは真逆で、必ず完成品の形で販売され(つまりはんだづけは一切しなくて済み)、標準でBASICなど高級言語が動き(そうしたければ、機械語など一切見ないで済み)、一般家庭が購入できるよう価格が抑えられているコンピュータのことであった。1981年3月にはイギリスのシンクレア社が家庭向きのコンピュータシンクレア ZX81を発売。1982年にはコモドールがコモドール64(C64)を発売。C64はこの時代で最も人気のあったマイクロコンピュータのひとつで、史上最も売れたホームコンピュータである。 1984年にはイギリスでAmstrad CPCの初代機「Amstrad CPC464」も発売。 こうして、完成品として販売され、多色表示を得意とし、家庭でゲームを楽しめ、一般家庭が購入しやすい比較的安価なコンピュータが増えていった[注釈 10][注釈 11]

その後のパーソナルコンピュータの歴史については、項目「パーソナルコンピュータ」で解説する。

microcomputerという用語

microcomputer(マイクロコンピュータ)という用語は、1956年7月に出版された『ファンタジイ・アンド・サイエンス・フィクション』誌に掲載されたアイザック・アシモフの短編小説 The Dying Night(やがて明ける夜)の中に登場する。

micro(マイクロ)という語が使われるようになったのは、集積回路によるいわゆるマイクロプロセッサ(microprocessor)が登場したことや、そのマイクロプロセッサを CPUとして使用したことによるところが大きい。そしてコンピュータのサイズが当時の"ミニコンピュータよりもさらに小さい"ので、miniよりも小さいのでmicroと形容されたと考えてよい。 ちなみに、当時のコンピュータに携わる人々の間では「micro(マイクロ)」という接頭辞は、"(究極レベルで)小型化を果たした"というニュアンスであり、とてもポジティブに感じられる言葉であった。 当時はそのように感じられる言葉だったから、ビル・ゲイツらも1975年に会社を設立する際に「Microsoft (マイクロソフト)」と命名したのである[注釈 12]

microcomputer(マイクロコンピュータ)という呼称は、Apple I, Apple II、コモドールPET 2001コモドール64TRS-80BBC Microなどを総称するために使われた(ただし、TRS-80ではすでにメーカー側は「personal computer」という用語も使い始めていた)。

「マイコン」という和製の略語は、日本では流行した。テレビドラマ『太陽にほえろ!』でも石原良純が"マイコン刑事"というキャラクターを演じた(1984年〜)[9]

入出力が揃い小型で個人が所有できるコンピュータ一式を指して「マイクロコンピュータ」(マイコン)と呼ぶことは、1980年代中ごろから顕著に減少し、現在では一般的ではない。現在ではパーソナルコンピュータと呼ぶ。また1970年代や80年代に日本で使われた和製の短縮語「マイコン」は、現在現役の技術者の間では専らマイクロコントローラを指すようになっている。

現代のコンピュータはマイクロプロセッサで作られることが当たり前で、もはや通常は「マイクロコンピュータ」とは呼ばれていない。

"個人で所有できる"や"個人が実務で活用できる(くらいに高性能)"という意味のパーソナルコンピュータという用語がコンピュータメーカーの広告コピー・宣伝文句で使われるようになってゆき、それがユーザの間にも、ゆっくりと、10年ほどの年月をかけて浸透していった。

タンディ・コーポレーション製のTRS-80(1977年発売)でもメーカー側はpersonal computerという用語を使っていたが、そちらはpersonal computerという用語が広まる上では、あまり影響力が無かった。また日本の日本電気(NEC)もPC-8001(1979年発売)あたりから広告で「パーソナルコンピュータ」という言葉(コピー)を強調して使うようになった(製品名も、Personal Computer → PC-xxxxという論理で命名するようになった)。メーカー側は命名論理を切り替えていたが、ほとんどの愛好者らは旧来どおりマイクロコンピュータやマイコンと呼び続けていた。

影響が大きかったのはIBMがpersonal computerという用語を使い始めたことだった。IBMは最初、他のホームコンピュータと呼ばれていたマイクロコンピュータや、IBM自身のメインフレームミニコンピュータと区別するために、「パーソナルコンピュータ」という用語を使った。IBMが1981年に発売したIBM PCの正式名称は「IBM Personal Computer」である。IBMはコンピュータ業界の覇者であったので、IBMがその用語を使い、取扱説明書や広告リーフレットなどで多用することで、世間一般にこの用語が浸透していった。さらにIBM PC の「クローン」(互換機)も多数販売一般的なものになり、「パーソナルコンピュータ」やその略語の「PC」という用語が世界的に一般化していった。

仕様

CPU

CPUはマイクロプロセッサであり、基本的には8ビットCPUである。基本的には "65系" と "80系" があった。当時のマイクロコンピュータのCPUの動作周波数は、現在のパソコンのギガヘルツと比べると3桁も小さい"メガヘルツ"で表記され、すなわち千分の1ほどのクロック周波数で動作し、おおまかに言えば、千分の1ほどの速度でしか情報を処理できない能力だった。

  • "65系"

Apple IApple IIPET 2001のCPUは、MOS Technology 6502(8ビットCPU)、クロック周波数は1メガヘルツ(MHz)だった(正確には1.022727 MHz)。Commodore 64(C64)の初期モデルのCPUはMOS 6510(MOS 6502の改良版)でクロックは1.023 MHzだった。

  • "80系"

日本電気(NEC)のTK-80のCPUは「NEC μPD8080A」(Intel 8080互換プロセッサ。8ビットCPU)で、クロック周波数は2.048 MHzだった。それにキーボードおよびデータレコーダー一体型キット「TK-80BS」も同様だった。 TRS-80のCPUはザイログ社のZ80(8ビット CPU)で、初期モデルのクロックは 1.77 MHzだった。シャープのMZ-80KのCPUはZilog社のZ80、クロックは2MHzだった。

主メモリ

RAM(主メモリ)は搭載していた。そのサイズは、Apple Iが、(わずか)1 キロバイト(KB)。Apple IIは標準では4 KBだが、最大で48 KBまで増設可能。PET 2001は初期モデルが4Kバイトモデルと8Kバイトモデルの2モデルが販売され、後期モデルでは32 KBまで増設できるものが販売された。TRS-80は初期モデルは4 KBで、やがて48 KBモデルまで販売された。Commodore 64(C64)は64 KB。NECのTK-80は標準で 512 バイト (0.5 KB) で、オプションで最大 1 KBまで増設できた。シャープのMZ-80Kは 20 キロバイト (KiB)で、最大で48 KiBまで増設できた(ただし、MZシリーズは"クリーン設計"でROMにシステムや言語が書かれておらず自由度が高いかわりにBASIC言語などまで毎回起動時に主メモリにロードするので、主メモリのかなりの割合がそちらで占められた)。

補助記憶装置

補助記憶装置は、1970年代中期はまだ搭載していないことが一般的だった。

  • データレコーダ

1970年代中期に家庭用のカセットテープとテープレコーダを使いデータやプログラムを記憶させることを始めた人々がいたもののフォーマットが乱立、『バイト(Byte)』誌がフォーマットの標準化をするために1976年に米国カンサス市でシンポジウムを開催しカンサスシティスタンダード(KCS)を確立。それにより1970年代後期にはデータレコーダを使いカセットテープにプログラムをセーブしたりロードすることが一般化した。Apple IやApple IIもKCSの改良版を使いセーブとロードを行った。Apple IIは約1200ボーでSAVE, LOADした。コモドールのPET 2001ではデータレコーダを筐体に埋め込み一体型にした。日本のNECのTK-80をコンピュータ化したTK-80BSでは当初300ボー(bps)、「TK-80BS/Compo」では改良され1200ボーでSAVE, LOADした。シャープのMZ-80Kは1200 ボーだった。

  • フロッピーディスク・ドライブ

1970年代中期はフロッピーディスクは使われていなかった(そして、ハードディスク もちろん ・・・・使われていなかった)。だが1970年代後期にはマイクロコンピュータ向けにフロッピーディスクドライブが販売されるようになった。たとえばAppleはスティーブ・ウォズニアックが設計した同社初のフロッピーディスク・ドライブ「Disk II」(英語版記事)を1978年6月に発売。5.25インチ フロッピーディスクのシングルドライブのもので、価格は595 USD(2台までドライブを接続できるインタフェースカードおよび接続ケーブル込み。当時のApple II本体の標準価格 $1,298 USDよりもかなり安い) Apple IIは表計算ソフトVisicalcのおかげでユーザ層に自営業者や中小企業が多く、購入余力があったうえにAppleのドライブは低価格に設定されていたのでFDDの利用は進んだ。Disk IIの後継機種も多数リリースされた。コモドールは1979年に同社初のフロッピーディスクドライブ「2040」を発売。これも5 1/4 インチのものだが、デュアルドライブで、(人により実購入価格にかなりのばらつきがあったらしく)$ 1295 から $ 800 USDほどだったというが、やや高価。

日本では、シャープの1978年12月発売のMZ-80K、1979年発売のMZ-80Cなどはデータレコーダ一体型であることが特徴で、当初フロッピーディスクドライブというオプションは無かった。その後、オプションで(ひっそりと)フロッピーディスクドライブが追加された[注釈 13]。1981年にMZ-80FD[10]が発売、5インチ倍密度のドライブが2基のもので、当時の価格は298,000円(MZ-80K本体標準価格198,000円の1.5倍の価格)。型番がMZ-80SFD[11][信頼性要検証]のドライブも。1981年発売のMZ-80B用にはオプションでMZ-80BFDが販売された[注釈 14] 。NECはPC-8001の発売(1979年5月)と同時期に「PC-8031」(デュアル・ミニディスク・ドライブ)も発売。価格はPC-8031-2Wが288,000円(PC-8001本体の標準価格16万8千円の1.71倍と高価)。FDDはコンピュータ本体より高価で、普及が遅れた。日本でフロッピーディスクドライブが本格的に使われるようになったのは、1985年にNECが5インチ2HDに対応のFDDを標準搭載したPC-9801Mを発売したことや、同年、本体に3.5インチFDDを内蔵したPC-9801U2を販売するようになって以降である。

電源

電源は、1970年代は電源回路を自分で用意しなければならないものもあった(キットにもよるが、基板しか販売せず、電源は独力で探して購入するしか方法が無いキットもあった)。キットに電源を含むものも増え、やがて購入時に電源は標準で含むようになった。

キーボード

キーボードは、1970年代はキットに含まれるものもあった。Apple Iではマザーボードとキーボードは別々であった。1970年代後半のApple IIPET 2001では本体とキーボードが一体化した。

ディスプレイ

ディスプレイ(当時は主に"モニタ"と呼んだ)は、当初は家庭用のテレビを流用するものが多く、そのためにRF出力をするためのアダプターが用意された。Apple IやApple IIでは別売りだったが、コモドール PET 2001やシャープのMZ-80などでは一体化型であった。モノクロの専用ディスプレイや、グリーンディスプレイもオプションで用意されるようになり、家庭用のテレビは安価だが画質が低いが専用ディスプレイのほうが画質が良いが価格は高い、という関係で、ひとつのマイクロコンピュータで家庭用テレビでも専用ディスプレイのどちらでも出力できるように端子が2つ用意されている機種も販売された。

プリンター

プリンターは、1970年代中期は無いことが一般的で、ディスプレイで視るだけということが一般的であったが、当時からエプソンの小型プリンタ(ドットマトリクス方式など)が世界で販売されており、熱心なユーザは工夫してそれを接続して使っていた。1970年代後半のApple II, PET 2001, TRS-80などあたりから各機種の"専用プリンタ"がメーカーからオプション販売されるようになっていった。

筐体の寸法

マイクロコンピュータは、一般家庭の机やテーブルの上に置くことができるサイズだった。一方、当時のミニコンピュータメインフレームは大きなラックや、空調をきかせた専用の部屋(コンピュータルーム)が必要であった。

脚注

注釈

  1. ^ ただし和製英語であり、英語話者には通じない。そして2000年代の日本の技術者にとっては「マイコン」は、むしろマイクロコントローラの略である。(しかも、どちらも和製の英語風略語であり、英語話者には通じない)
  2. ^ いつごろからパソコンという呼称が優勢になったかは、はっきりしない。どちらの呼称を使うかは、メーカー各社で判断が異なり、メーカーと愛好家でも異なったし、愛好家の判断もひとりひとり異なった。
  3. ^ フランス語圏のコンピュータであり、フランス語と英語の間にある"言葉の壁"のせいかも知れない。あるいはアメリカの人々がマイクロコンピュータの歴史を語る際に、ついつい"自国愛"から、アメリカでの歴史ばかりを語ろうとし、フランスで一歩先にMicralが登場したという事実にあまり触れたくないと感じ、言及を避けがちだからかも知れない。そしてアメリカ人が書いた"マイクロコンピュータ史"が世界で流布し読まれがち、だからかも知れない。
  4. ^ (ただしDatapoint 2200はモニタ、キーボード、テープ・ディスクドライブを搭載し近代的なデザインを持っており、著しく例外的であった
  5. ^ アメリカ人が書くマイクロコンピュータ史では一般的に、Altairは"商業的にも成功した最初のマイクロコンピュータ"とされる。だがその内実は、注文が殺到したにもかかわらず、生産体制が弱く注文に生産が追いつかなかったうえに品質管理に不備があり、苦情や返金要請が相次ぎ、果ては訴訟沙汰にもなった。MITS社はAltairの基本セットの販売価格を損益分岐点(あるいは原価か)とほぼ同額に設定し、オプション品のほうで儲ける方式の価格設定をした(価格決定の戦略としては、いくつかある選択肢のひとつである)。この価格戦略を選択する場合、基本セットばかり売っていても利益が出ないので、会社としてはオプション品を早めに製造・販売して利益を出さないと会計が破綻してしまうのに、MITS社の経営者は注文が殺到するのを見て "まず基本セットの生産・販売に注力する"という決断(判断ミス)をしたため、注文が殺到しつづける中、MITS社は基本セットばかり生産することになってしまい、結果、"どれだけ忙しく働いて生産しても利益が出ない"という事態が延々と続く状態に陥り、さらにMITS社はAltair発売の前に経営不振状態に陥っていてAltair生産開始時にほとんどお金(現金)が無かったことも重なり、"Altairを販売しても利益が出ないからお金が無く、お金が無いからAltairの生産体制も増強できない"(生産設備も、生産人員数も、品質管理体制も増強できない)という奇妙な悪循環も続き、結局、MITS社は1977年に売却されることになった。
  6. ^ なお、その時期のマイクロコンピュータとして、Tektronix 4051は完成品販売やROM-BASIC搭載によりすでに"第2世代"の特質を先取りしていたうえに、ストレージチューブ方式画面でグラフィック能力が尖っており、かなり異色の存在であった
  7. ^ 自社のプロセッサの動作を確認してもらい馴染んでもらうための、最低限の入出力を備えたキットは、メーカーによって呼び方が異なり、"development kit"(開発キット)と呼ぶことが多いが、NECはTK-80を"トレーニングキット"と呼んだ。マイクロプロセッサが知られていない当時の日本の状態では "開発キット"と呼んだらハードルが高く感じられ使ってもらえない可能性があるので、心理的ハードルを下げるためにNECは"トレーニングキット"と呼んだ可能性が高い。"トレーニングキット"ならば普通の人は、"入門や初歩段階の人でも購入してよいものだろう" と感じ心理的ハードルが下がる。"開発キット"は専門家やプロを連想させ、"すでにマイクロプロセッサの知識やノウハウを持っている人しか購入してはいけないのではないか? 自分は全く該当しない" と普通の人に感じさせ、ハードルが高くなる。TK-80がよく売れたのは、スペックが十分に良かったことも要因だが、NECの"トレーニングキット"という呼び方や広告のしかたも(予想外の)成功の大きな要因になった可能性がある。一般に、呼び方や広告のしかたで製品の商業的運命は全く変わる。
  8. ^ NECが考えていたことは、電子回路や電子的な製品を製造している会社(仮にA社とする)の技術者が、業務としてそのTK-80を使って8080互換CPUの使い勝手を確かめ、電子的製品の部品を今までの集積回路複数の組み合わせから8080互換CPUに変更したり、あるいは8080互換CPUでならできる新たな電子的な装置を思いついてもらって、A社で8080互換CPUを組み込んだ電子的な製品を設計してもらい大量に製造してもらうことであり、それによりNECの8080互換CPUを部品として大量に使ってもらいたい、8080互換CPUを大量に部品として購入してもらいたい、その前段階の作業に必要なトレーニングキット(開発キット)をNECとして提供する、というのがTK-80を販売した本来の意図であった。
  9. ^ BSはBASIC Stationの頭文字。「μCOM ベーシック・ステーション」とも表記された。μCOM(ミューコム)は当時NECが展開したしはじめたばかりのブランド名。「μ(ミュー)」はギリシャ文字で「micro(マイクロ)」の象徴。つまり「マイクロコンピュータ」を表す技術的な記号。当時の技術者文化の中では、「μ=先進・精密・小型」という意味合いが強く、技術的にはカッコいい言葉とされていたのでNEC側は選んだ。ただし、一般消費者にとってギリシア文字は縁遠く、かなり記憶しづらい文字・単語で、マーケティング的にはやや失敗気味の命名であった。
  10. ^ 当時の圧倒的大多数のアメリカ人の考え方をそのまま紹介すると、当時のアメリカ人が考える「普通の家庭」や「普通の家庭人」は、必ず結婚しており、たいてい子供が数名以上おり、良識や常識の範囲にとどまる人で、日本でいう「おたく的」な要素をかなり嫌う人々だった。たとえば、結婚せず独身ではんだ付けや電子工作に熱中するような人々は、当時のアメリカ人の感覚では まともな家庭人とは真逆の存在と考えられていた。電子工作マニアなどを毛嫌いしてた人々が圧倒的多数であった当時のアメリカでマイクロコンピュータを大量に販売して利益を大きくしようとするなら、良いも悪いも無く、当時の「アメリカの普通の家庭人」に気に入ってもらえるような製品を用意して販売する必要があったのである。なお、現代では、当時の大多数のアメリカ人の考え方は"多様性を認めていない"とか"不寛容な態度だ"などと批判の対象になりうるが、当時のアメリカ人の頭の中をできるだけそのままに解説した。
  11. ^ 現在では家庭でコンピュータを購入してもそれを"home computer"とは言わない。今では "home computer"と言うと、1980年代のhome computerを指す状態になっている。
  12. ^ 現在では、マイクロではなく、「ナノ nano」が"究極に小型化している"ということを象徴する言葉(接頭辞)になっている。
  13. ^ MZシリーズはカセットテープを高度に利用できることが特長なので、FDDについてあまり強調した広告はされず、ほとんどのユーザにFDDはあまり意識されなかった
  14. ^ シャープが1982年に発売したビジネス機 MZ-3500 シリーズは5インチ・フロッピードライブ2基を標準搭載した。MZ-3500はビジネス用マシンで、標準価格410,000円と高価で、かなり筐体が大きい。

出典

  1. ^ microcomputer”. Dictionary.com. 2025年10月4日閲覧。
  2. ^ Powerful Computing Genie: $4900 (2025年10月23日閲覧)
  3. ^ HP 9830A (2025年10月23日閲覧)
  4. ^ MicroprocessorHistory
  5. ^ The French Micral N, the first microcomputer to be sold at auction today”. 2025年10月8日閲覧。
  6. ^ SMP80/Xシリーズ-コンピュータ博物館2025年4月29日閲覧。
  7. ^ A.G., バクロウ (1975年7月). “マイクロコンピュータ”. サイエンス: 70. 
  8. ^ NEC TK-80”. 2025年10月4日閲覧。
  9. ^ 川添愛「情報技術とAIから、ゆるく平成を振り返る」『平成遺産』淡交社、86ページ。
  10. ^ [1][PDFファイルの名無しリンク]
  11. ^ [2][名無しリンク]

マイクロコンピュータ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/08 17:15 UTC 版)

エイコーン・コンピュータ」の記事における「マイクロコンピュータ」の解説

CPU社は設計委託業務から得た収入使って6502ベースのマイクロコンピュータシステムの開発着手した1979年1月最初の製品エイコーン・コンピュータAcorn Computer Ltd)から発売された。設計製品販売を別会社にすることで、リスク分散したのであるエイコーンどんぐりの意)という名称は、マイクロコンピュータが今後大きく成長することを期待して名づけられた。また、電話帳で "Apple" よりも前になるという点も考慮された。 このころCPU社とアンディ・ホッパーは、彼の学位論文成果である Cambridge Ring というネットワークシステム商業化すべく Orbis Ltd立ち上げたが、ケンブリッジ大学コンピュータ研究所との関係を強化したい CPU社は彼をCPU社のディレクターとして雇い入れたCPU社はOrbis買い取りホッパー所有するOribisCPU社の交換された。エイコーンブランドとして成長と共にCPU社の役割変化していき、間もなくCPU社は単なる持ち株会社となってエイコーン開発も行うようになったカリーはいずれかの時点シンクレア決別し SoC退職したが、エイコーン正式に参加するのはしばらく経ってからである。 後に Acorn System 1 と改称されAcorn Microcomputer は、ソフィー・ウィルソン設計である。技術者研究者向けのシステムだが、非常に低価格であったため(約80ポンド)、ホビーストにも受け入れられた。2枚基板構成されており、1枚にはLEDディスプレイキーパッド、カセットインタフェースが装備され、もう1枚CPUなどのコンピュータ本体実装されていた。ほとんど全てのCPU信号にEurocardコネクタ経由アクセス可能であった次の System 2 では、System 1 のCPU基板19インチ(480mm)Eurocardラック装着可能にしたもので、各種拡張機能オプション装備可能であった典型的な System 2 には、キーボードコントローラ、外部キーボードテキストディスプレイインタフェースカセットOSBASICインタプリタなどが装備されていた。 System 3 では、フロッピーディスクサポートされSystem 4 では2台目ドライブ内蔵可能な大きめ筐体となったSystem 5 は System 4 とほぼ同じだが、MOS 6502 の2MHz版を使っている。

※この「マイクロコンピュータ」の解説は、「エイコーン・コンピュータ」の解説の一部です。
「マイクロコンピュータ」を含む「エイコーン・コンピュータ」の記事については、「エイコーン・コンピュータ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「マイクロコンピュータ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ

「マイクロコンピュータ」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。



マイクロコンピュータと同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「マイクロコンピュータ」の関連用語

マイクロコンピュータのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



マイクロコンピュータのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
IT用語辞典バイナリIT用語辞典バイナリ
Copyright © 2005-2025 Weblio 辞書 IT用語辞典バイナリさくいん。 この記事は、IT用語辞典バイナリの【マイコン】の記事を利用しております。
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのマイクロコンピュータ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのエイコーン・コンピュータ (改訂履歴)、日本の発明・発見の一覧 (改訂履歴)、ディジタル・イクイップメント・コーポレーション (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2025 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2025 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2025 GRAS Group, Inc.RSS