高麗王朝の動揺とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 高麗王朝の動揺の意味・解説 

高麗王朝の動揺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 15:04 UTC 版)

武臣政権」の記事における「高麗王朝の動揺」の解説

朝鮮史上、文班・武班の両班ヤンバン制度が始まるのは高麗時代からであるが、高麗では文治主義伝統に基づき、武班官僚は文班官僚下位におかれていた。958年から唐の制度参考にして導入され科挙官吏登用試験)においても、文科・雑科や僧侶格付けする僧科が創設されたのみであり、武人登用する武科は無く、武班職になるには世襲的蔭叙による任命か、戦争武功による抜擢のみであった。これらから「尚文軽武」すなわち武班に対する文班の高慢蔑視という風潮生み出していた。武臣トップである上将軍大将軍をはじめ武臣合議機関重房(チュンバン)」を拠点活動していたが、つねに差別的な待遇甘んじてきた。すでに11世紀初頭段階で、文臣対す武臣反撥が金訓の乱(1014年)という形で噴出している。 12世紀に入ると、朝鮮半島北方にある満洲平原主役は、契丹(遼)から女真(金)交替期にさしかかっていた。高麗王朝はこれに介入するため、軍制改革して幾度か侵入試みたが、いずれも女真激し攻撃受けて敗退した。やがて靖康の変で宋が華南後退し、金が華北支配者として確定すると、1128年高麗は金に入貢し、冊封受けて関係改善図った。しかしこの時期1126年王室外戚李資謙(イ・ジャギョム)が王位狙った李資謙の乱が勃発1135年には風水地理説や陰陽秘術人々幻惑した僧侶妙清(ミョヂョン)が、朝廷高官籠絡して開京開城)から西京平壌)への遷都画策し、後に妙清が大為国称して独自年号立てたことから、一年にわたり国家南北二分する争いとなった妙清の乱発生し王朝動揺するとともに首都開京荒廃した結局国王仁宗の命を受けて妙清の乱鎮圧したのは、『三国史記』の編者としても知られる文臣金富軾(キム・プシク)であり、国家非常時における兵権文臣握られていることにも武臣の不満は高まったくわえて1146年から四半世紀わたって王位にあった毅宗(ウイジョン)が豪奢遊興にふけり、宦官専横を許すなど、政治弛緩甚だしく国内さらなる不満が蓄積されていた。とくに毅宗土木工事仏教儀式挙行に際して下級武臣現職の武班)や軍人らを酷使した一方で文臣宦官露骨に優遇したために、武臣らの不満は頂点達していた。

※この「高麗王朝の動揺」の解説は、「武臣政権」の解説の一部です。
「高麗王朝の動揺」を含む「武臣政権」の記事については、「武臣政権」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「高麗王朝の動揺」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「高麗王朝の動揺」の関連用語

高麗王朝の動揺のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



高麗王朝の動揺のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの武臣政権 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS