高麗町の成立と被虜人の移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 14:25 UTC 版)
「高麗町」の記事における「高麗町の成立と被虜人の移住」の解説
文政6年(1823年)の「立野並苗代川焼物高麗人渡来在附由来記」によれば、慶長3年(1598年)に島津義弘が連れてきた鹿児島前之浜に上陸した高麗の被虜人が多数居住したことにより「高麗町」として町立てされたとされる。しかし、高麗町に居住した被虜人らは日本人との言語不通や風俗習慣の違いもあり迫害圧迫を受け、仕事がなく生活に困窮していた。これを見かねた島津光久は肥前系統の陶磁器の製作法を彼らに伝授させた。 江戸時代の寛文3年(1663年)及び寛文9年(1669年)にはそれまで高麗町に居住していた高麗人を日置郡伊集院郷苗代川村(現在の日置市東市来町美山)に移したという。苗代川村への移住者に対しては薩摩藩により土地や屋敷・井戸・山林などの生活基盤が支給された。
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