高麗滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 00:58 UTC 版)
1350年代、元朝の衰えが顕著となると、恭愍王は親元勢力を排除し、元の外戚として権勢を振るっていた奇氏を討伐。崔瑩(チェ・ヨン)や李成桂(イ・ソンゲ)らの武人を登用して1356年に元から高麗旧領土を奪い返し、ようやくモンゴルから脱して独立した。しかし、大陸で紅巾の乱が発生し、紅巾軍が朝鮮半島にも到来するが高麗軍は撃退に成功する。また同時期に倭寇の襲来にも高麗は悩まされており、1389年には朴葳(パク・ウィ)が対馬征伐を行なっている(高麗・李氏朝鮮の対馬侵攻)。 この過程で力を得た李成桂によって1392年に李氏朝鮮が成立し、高麗王朝は滅亡した。
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