高麗朝廷の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 08:16 UTC 版)
「モンゴルの高麗侵攻」の記事における「高麗朝廷の動き」の解説
高宗が崔氏三代目の崔沆(チェ・ハン)に対策を問うたところ、「国王は軽々しく江華島より出るべきではありません」と答えた。廷臣たちはモンゴル側の出陸の要求に従うべきだと考えていたが、崔沆がこれを拒絶すべきとの意向を示したため、高宗共々これに従ったという。高宗は代わりに新安公佺に使者たちを迎えさせるよう遣わし国王の出陸は行われなかった。この高麗の違約は使者の多可らを怒らせ、モンゴルの使者は帰還した。 1252年12月、モンケの命を受けた諸王イェグ(也古、ジョチ・カサルの長男)が軍をともない併せて質子(トルガク)としてモンゴル宮廷に出仕していた永寧公綧を使者として寄越して来た。モンゴル軍はその間、東真国のあった地域に進駐した。
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