高麗時代の科挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/31 03:48 UTC 版)
高麗の建国勢力は、新羅下代から後三国時代に形成された地域有力家である豪族たちであり、高麗建国以後に貴族になった。既に高麗の太祖の時期から、貴族は王権に対する強力な挑戦者だった。 本格的な科挙の導入は高麗の光宗の時期に成り立った。光宗は貴族たちに対する牽制のために科挙を導入したが、結局、高位貴族の子息たちを科挙なしに官吏に登用する蔭叙を並行するようになった。高麗末に性理学が伝来されて、新進士大夫によって儒教的理想による政治の実現が強調され、すべての官吏を科挙を通じて選抜しようという主張が激しくなった。 高麗の科挙は、製述業、明経業、雑業に分けられる。製述科は文学的才能と政策などを試験して、明経科は儒教経典に対する理解能力を試験して文臣を選んだ。雑科は法律、会計、地理など実用技術学を試験して技術官を選んだ。法制では良民以上は誰でも試験に応試することができたが、実際に製述科と明経科に応試する人は主に貴族と郷吏の子弟だったし、農民は主に雑科に応試した。 このような科挙は高麗社会が以前の古代社会よりも能力を重視する社会だったことを意味する。一方、科挙を通じないで官吏になれる制度である蔭叙で官吏になった者が科挙を通じて官吏になった者より多かったという事実から、高麗の官僚体系が貴族的特性を持っていたことが分かる。 高麗は恭愍王の時まで武科を施行しなかった。
※この「高麗時代の科挙」の解説は、「朝鮮の科挙」の解説の一部です。
「高麗時代の科挙」を含む「朝鮮の科挙」の記事については、「朝鮮の科挙」の概要を参照ください。
- 高麗時代の科挙のページへのリンク