梅北一揆とは? わかりやすく解説

梅北一揆

読み方:ウメキタイッキ(umekitaikki)

安土桃山時代肥後国一揆


梅北一揆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/07 13:49 UTC 版)

梅北一揆(うめきたいっき)は、文禄元年(1592年)6月に島津氏の家臣で大隅国菱刈郡湯之尾地頭の梅北国兼が起こした一揆である。

概要

豊臣秀吉による1回目の朝鮮出兵(文禄の役)の際、前線基地である肥前名護屋城へ向かう船を待つ名目で肥後国葦北郡佐敷に留まっていた梅北国兼は、文禄元年6月15日1592年7月23日)、葦北を治める肥後熊本城加藤清正の朝鮮出征中の隙を突く形で佐敷城を占拠する。動機は、朝鮮出兵への反発とも、秀吉の支配に対する反発ともいわれる。

この一揆には田尻但馬、東郷甚右衛門といった島津家臣が参加し、それぞれの手勢に農民や町人が加わった反乱軍の人数は七百人であったとも二千人であったともいわれる。

これまで、国兼は佐敷城の留守を預かっていた安田弥右衛門らの偽りの投降に油断して6月17日に境善左衛門によって斬殺されたため一揆はわずか3日で鎮圧された、とされていた。しかし、最近になって一揆勢は佐敷城を15日にわたって占拠していたという説も浮上している。いずれにしても一揆勢は佐敷の北の八代城(現在の麦島城跡)を攻めたが失敗に終わり、加藤氏や肥後人吉城相良氏の軍勢によって鎮圧され、国兼は死亡した。国兼の首は名護屋城に届けられて浜辺に晒され、胴体は佐敷五本松に埋められたという。

この梅北一揆はもともと遅れ気味であった島津氏の文禄の役参陣をさらに遅らせてしまう結果となり、島津義弘をもってして「日本一の遅陣」と言わしめるほどの失態につながった。この遅陣は島津氏に対する豊臣政権の不信を招き、島津領内では豊臣政権の遣わした浅野長政細川幽斎らによる徹底した検地が行われることになる。さらに島津歳久が秀吉によって一揆の黒幕とみなされ、島津義久の追討を受けて死亡したほか、一揆に家臣が参加したという理由で肥後の阿蘇惟光がわずか12歳で切腹させられた。

梅北一揆によって島津氏の政治的な立場は極度に悪化したが、検地やそれに伴う国人領主層の没落は結果として島津氏の大名権力強化につながり、慶長の役で軍功をあげ名誉を挽回する契機となった[注釈 1]。また事件後の処罰が苛烈だったことから、この後の豊後大友氏の改易事件などとともに、豊臣政権になじまなかった九州の諸勢力を政権体制下に組みふせる効果があったとされる[1]

一方、国兼は旧領において神となり、現在も鹿児島県姶良市北山に国兼を祀る梅北神社が残っている。

脚注

注釈

  1. ^ 検地により、国人を旧来の領地から移封させて切り離して権力基盤を弱めた上、島津氏直轄の蔵入地を増やすことで大名権力を強化したとされる。(山本『島津義弘の賭け』)。だが、この検地自体が実収を無視した面があり、江戸時代になってからも藩政に影を落とすこととなる(『鹿児島県の歴史』)。

出典

参考文献

  • 山本博文『島津義弘の賭け― 秀吉と薩摩武士の格闘―』(読売新聞社、1997年)
  • 『鹿児島県の歴史』山川出版社
  • 小和田哲男「九州停戦令と九州攻め」『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年9月。ISBN 4-642-06325-0 

関連項目


梅北一揆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 10:13 UTC 版)

梅北氏」の記事における「梅北一揆」の解説

天正20年1592年)、豊臣秀吉の命により、佐敷城加藤重次加藤清正に従って文禄の役朝鮮半島出陣していた。 文禄元年1592年)国兼も朝鮮出兵のため、肥前国平戸至ったが、6月船待ち」と称して肥後葦北郡佐敷留まり入来院重時家老東郷甚右衛門新納旅庵義兄弟田尻但馬大姶良地頭伊集院三河守、さらに町人らもあわせて二千人余という大規模な一揆起こした。国兼ら手始めには佐敷城留守居安田弥右衛門のもとへ使者遣わし佐敷城攻めた留守を預かる坂井(境とも)善左衛門らは無勢のため城を明け渡し6月15日佐敷城は国兼の手に墜ちた。動機は、朝鮮出兵もしくは豊臣秀吉支配対す反発といわれる。国兼は翌16日田尻をすでに渡海していた小西行長領の八代郡麦島城攻略遣わし、国兼は肥後南部一揆状況化を企て配下の山蜘(やまくも)という男を近隣差し向け同心募った。 しかし17日、国兼は清正部下佐敷留守居衆の策略によって殺され一揆は僅か3日崩壊したとされている(近年では佐敷城占拠15日間に及んだとする説も浮上しており、国兼は佐敷城占拠730名を動員し、しかも別動隊として八代麦島城攻めには1000人に及んだという)。佐敷城留守居坂井善左衛門安田弥右衛門らは、相良氏応援を頼む一方一計案じた女たちに「陣中見舞い」と称して鮒鮨と酒を持たせ、国兼ら一揆勢が酒に酔った隙に乗じて首を討ち取り城を奪回した一揆失敗した最大原因は、共闘呼びかけ郷村の古侍層が決起せず、逆に一揆攻撃する側に回ったことに求められる秀吉から「悪逆人」と名指しされた国兼をはじめ「同意奴原(どういやつばら)」もことごとく討ち取られた。国兼の首は唐津名護屋城届けられ浜辺さらされ胴体佐敷五本松埋められたという。墓標は平たい自然石で、銘は何もなかったといわれる。 梅北一揆は、秀吉朝鮮出兵抵抗した国内唯一の運動であったとともに大規模なものとしては中世最後国人一揆位置付けられる。国兼の妻子下一族は名護屋磔刑一揆主な参加者極刑処せられた。

※この「梅北一揆」の解説は、「梅北氏」の解説の一部です。
「梅北一揆」を含む「梅北氏」の記事については、「梅北氏」の概要を参照ください。

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