摩羅難陀とは? わかりやすく解説

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まらなんだ 【摩羅難陀】

朝鮮百済初め仏教伝えたインドまたは西域の僧。『三国史記』では三八四年東晋から百済行き枕流王迎えられたとする翌年王都漢山に寺を建て僧一〇人を得度させたという。だが疑問説もあり、百済仏教受容は六世紀初頭との説がある。

摩羅難陀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/11 15:07 UTC 版)

摩羅難陀
生没年不詳
生地 西域[1]
インド[1]
没地 不詳
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摩羅難陀(まらなんだ)は、はじめて百済仏教を伝えたという西域またはインド出身の[1]

人物

三国史記』によると、枕流王元年(384年)に中国東晋から百済に渡った[1]百済の枕流王は摩羅難陀を宮中に迎え入れ礼敬を致し、翌年(385年)に漢山に仏寺を創建し、10人の僧を得度して住まわせたとされている[1]。『晋書』は太元9年(384年)7月の百済の朝貢を伝えており、摩羅難陀の渡来は、この朝貢使の帰国に付随したものとみられる[2]。しかしながら、これらの所伝は疑問視されており、百済の仏教受容は6世紀初頭とする見解が有力である[1]末松保和は、百済仏教の384年渡来説をやや早きに過ぎると疑っており、『日本書紀』推古三十二年条に引かれた百済僧観勒上奏文に、・百済・日本の仏教初伝年次にふれた叙述があることに着目し、この一節の解釈から、百済仏教の伝来年次を推古三十二年(624年)より100年前の524年頃と推定した。末松保和の主張は、妥当な見解として現在も多くの学者から支持されている[2]。百済が漢城に都した時代(371年から475年)に属する仏教関係遺物遺跡が皆無であり、文献史料の乏しいことも、末松保和の主張を支持する有力な証左とみなされている[2]

脚注

  1. ^ a b c d e f 世界大百科事典摩羅難陀』 - コトバンク
  2. ^ a b c 薗田香融 (1989年3月). “東アジアにおける仏教の伝来と受容”. 関西大学東西学術研究所紀要 (22) (関西大学東西学術研究所): p. 7 


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