三国時代の初期仏教
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朝鮮半島への仏教の伝来は、4世紀後半に魏晋南北朝時代の中国から、様々な経路を経て高句麗・百済・新羅に伝搬した。『三国遺事』『三国史記』によると、仏教は胡人の僧阿道の手により高句麗と新羅にもたらされた。 高句麗へは372年(小獣林王2年)に、前秦王苻堅が胡人の僧順道を派遣したことが初伝であり、この時期には般若系の思想や格義仏教が伝わっている。また、高句麗から中国に留学した僧郎は、梁の武帝の下で三論宗の基礎を築いた。 百済へは384年(枕流王元年)に東晋から摩羅難陀が来訪したことが初伝となる。5世紀にはインドへ留学した謙益が『阿毘曇蔵』と『五分律』を持ち帰り、律の研究が進んだ。また、南岳慧思から学んだ玄光による法華信仰や、弥勒信仰が行われた。 新羅への伝搬は諸説あるが、528年(法興王14年)に、高句麗からもたらされた仏教の受容を訴えた異次頓(朝鮮語版)の殉教を経て公認されたという説が有力である。 五胡十六国時代から南北朝時代の中国から伝えられ、これら三国においてはその後の律令制度の整備に伴い、国家建設の理念としての役割を果たすようになった点が特徴的である。特に新羅においては、護国仏教としての性格が強いのが特徴で、唐の侵攻に対し先頭に立って人民に徹底抗戦を促して、新羅の朝鮮半島統一に大きな影響を与えた。この時代の仏教は、三論宗、律宗、涅槃宗がまず伝わり、次に円融宗、華厳宗、法性宗が伝わった。この他、主なものに法相宗、小乗宗、海東宗、神印宗などがあった。 三国時代の末期から統一新羅の初頭にあたる7世紀は、東アジア全域での仏教の最盛期であり、僧侶の往来も盛んに行われ、朝鮮からも多くの学僧を輩出した。円測(613年 -696年)は627年に入唐し、玄奘に師事して唯識学を学んだ。円測は帰国せず唐で没したが、唯識学の学統を築いた。元暁(617年 -686年)は、『十門和諍論』の中で仏法は一観であり、説けば十門となる。百種類の異論を調和させて、一味の法海に至るようにする(和百家之異諍 歸一味之法海)と、根本的な唯一の仏法を「和諍」の思想から世に提示した。また、海東華厳の祖と言われる義湘(625年 -702年)は、唐の智儼の下で学び、帰国後に華厳宗の根本道場となる浮石寺を建立し、統一新羅を支える国家仏教を確立した。 6世紀の中ごろ、百済を経由して日本にもたらされた仏教も、「インド仏教」そのままのものではなく、中国において再構成された「中国仏教」であったことは、百済から日本の天皇に送られた「仏像・経巻」が、金銅仏であり、漢訳仏典であることに注意すれば、これ以上の多言を要さない。
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