三国時代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 08:46 UTC 版)
後漢の最後期、最高権力者が曹丕となって魏王朝の樹立が現実的となり、220年に陳羣の提案により九品官人法が始まって、郷挙里選は廃止された。郷挙里選と九品官人法の関係については以下の2つの見解がある。 人事制度の観点からは、漢魏の易姓革命は、魏王曹丕の陪臣が、そのまま全て皇帝曹丕の勅任官になることを意味する。例えば、陳羣自身は、九品官人法を制定した時点で魏王国の尚書であり、革命によって魏王朝の尚書となった。ここで問題になるのは、逆に、漢で勅任官だった官吏は魏では失職することであり、郷挙里選では推薦する側の立場だった高官らもここに含まれる。つまり、推薦者不在のため郷挙里選の実施は現実的に不可能であり、しかも、人材を量的に補うために旧体制の勅任官を新体制の勅任官にスライドさせる必要が生じた。この時に旧体制の勅任官だった人々は、新しく設けられた中正官によって審査され、算定された九品に応じた新たな官職に割り振られた。この制度が九品官人法であり、言い換えれば、九品官人法は革命に必要だったから制定された仮初めの制度で、過渡期が終われば不要である。前述のように、実際にこういった考えから、西晋による再統一後の290年ごろに、衛瓘・司馬亮と劉毅は九品官人法の廃止と郷挙里選の復活を訴えた。 あるいはこうも考えられる。曹丕の父の曹操は郷挙里選による推薦者と被推薦者の人的結合という弊害を巧みに利用し、丞相・魏王となって自らの府を開くまでになった。丞相府や魏王の政府へ辟召した属官と漢王朝の勅任官を茂才や高第で入れ替えることによって、推薦者としての影響力を漢の要職に及ぼして勢力を拡大したのである。ところが、革命を目前とした曹丕らにとって、もはや勅任官を作り出すことに意味はなく、郷挙里選による人的結合の弊害はそのまま弊害として受け取られることになった。なんといっても、この人的結合が皇帝を超える権力を生んで革命を起こしうることを、曹操が証明してしまったからである。実際に魏王朝内でも郷挙里選による人的結合が露呈するケースがあり、例えば、魏王国では劉備死亡の知らせを受け祝ったが(この時点では劉備は存命で誤報だった。劉備の死去は、漢魏革命後の223年)、袁渙はひとりだけ祝賀に加わらなかった。なぜなら、袁渙を茂才で推薦したのは、豫州刺史だったころの劉備だったからである。他方で、魏王国の時点で新王朝に必要な人材は既に揃っていたという見方もあり、そうであるならば、たとえ革命に不満を持つ人材があったとしても、あえて審査して漢王朝への忠誠心を刺激し反感を買う必要はなかったはずである。結局のところ、この説では、九品官人法が導入された主な理由は、まさに郷挙里選とその弊害を終わらせることだったということになる。 いずれにせよ、孝廉や秀才など郷挙里選の各科目は九品官人法に吸収される形で存続し、そのための試験も行われた。しかし、これらの科目による登用は、九品で定められた家格と試験結果の不適合を避けるため試験の形骸化が進んだことや、中央の高官が保身のために地方の出身者を阻んだことなどを理由に衰退し、郷挙里選の科目が「求賢」としての役割を果たすことはなくなった。
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