三国時代から明清まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 03:48 UTC 版)
後漢末期、陶謙が揚州とともに支配し割拠するが、彼の死後は曹操・呂布・劉備・袁術らが徐州地方の彭城国や下邳国をめぐり争奪戦を繰り広げた(下邳を参照)。三国時代には魏により徐州が設置されている。また曹操は陶謙の部下に父を殺され徐州で住民の大虐殺を行った。 411年(義熙7年)、東晋により北徐州が設置されている。晋末になると、彭城・綏輿里(現在の銅山区)の出身の劉裕(後に東晋を簒奪し、南朝宋の武帝となった)は反乱鎮圧の功績で王朝内で勢力を強め、南北の境に位置する彭城を前線基地に410年・417年と二度の北伐を開始して南燕・後秦を滅亡させた。南北朝時代になると421年(永初2年)に南朝宋により北徐州は徐州と改称され、その後彭城地方は北魏と南朝諸国の両方の橋頭堡と化した。 隋朝が成立すると徐州け経由して大運河が建設され南北を結ぶ物流の要衝となった。607年(大業3年)には彭城郡と改称されたが、唐朝が成立すると621年(武徳元年)に再び徐州と改称された。その後742年(天宝元年)に彭城郡、758年(乾元元年)に再び徐州と改称されている。唐末の龐勛の乱(868年)では反乱軍が彭城で唐軍と対峙している。宋代には文人の蘇軾が徐州知州に任ぜられ、如黄楼、快哉亭、放鶴亭、東坡石床、蘇堤など今日に残る多くの歴史建造物を作っている。北宋末期になると金の将軍、粘没喝は軍を率いて徐州に侵攻している。 元代になると1348年(至正8年)に徐州路に昇格したが、1352年(至正12年)に武安州に降格されている。元末になると芝麻李は徐州の乱を起こし、元朝に対抗している。その後朱元璋は徐達を派遣して北伐を開始、元軍を追放して徐州を占領している。その後明朝が成立すると再び徐州が設置された。清代になると1733年(雍正11年)に徐州府が設置されている。
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