三国時代前半
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 23:08 UTC 版)
三国時代の前半は、高句麗が満洲にまで領土を広げて最大の国家となった。百済は高句麗と対立を深めて、新羅は高句麗に従属した。4世紀後半、高句麗に服属を強いられていた百済は、高句麗に対抗するために倭国と交渉をする。倭国と百済の通交では、金官加耶に属する卓淳国が仲介をした。百済は後の腆支王となる王子を倭国へ質として送り修好を結び、倭国は朝鮮半島に派兵をして倭・高句麗戦争となった。倭国は新羅を攻撃するが、高句麗の好太王が新羅を救援したことにより阻まれた。倭国は帯方郡にも侵入をするが、好太王により撃退された。 栄山江の流域は百済と異なる文化をもっており、倭国と独自に交流した。倭国は朝鮮半島から物資や先進技術を取り入れつつ、半島に行って生活する者もいた。栄山江流域の海岸沿いには、倭系古墳と呼ばれる日本型の古墳も築造されている。倭系古墳は、海を望む場所に独立して建てられ、石棺は北部九州に似ており、副葬品には倭系の武器や甲冑、そして百済の装飾品が多い。そのため、埋葬されているのは北部九州からの倭系渡来人の可能性もある。栄山江流域では、かつては倭国独特の墓とされてきた前方後円墳も5世紀後半から6世紀前半に築造されている。倭国の墳墓と似ているだけでなく、石室や埴輪型の副葬品などの共通点もあり、被葬者の出自について論争が続いている。古墳は身分や出身にもとづく社会階層や外交関係も示すことから、前方後円墳の出現や大型化には中国や朝鮮半島の政治が関係しているという説もある。日朝の寄港地だった沖ノ島は三国時代にヤマト王権の祭祀場となり、海上交通の祈願が行われた。
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