高取城攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 06:52 UTC 版)
京都守護職松平容保は、高取藩、彦根藩、津藩など周辺諸藩に対し天誅組追討令を発した。これを受けて、先に天誅組に恭順を約した高取藩は態度を翻し、兵糧の差し出しを拒否したため、天誅組は高取城攻撃を決定する。高取城を奇襲して占拠し、籠城して討伐軍に抗戦する計画であった。25日、忠光率いる本隊が高取に向かい、吉村は別働隊を率いて御所方面に進出して郡山藩に備えた。天誅組の進発を察知した高取藩は城代家老中谷栄次郎の指揮で防備を固める。千人余の天誅組に対して、二万五千石の小藩である高取藩の兵力は200人程だったが、急遽領民を動員して2000人程度の兵力を整えた。また地理を熟知しており、高地に大砲を設置し、要所に兵を配置した。同日夜、高取城へ向けて進撃中、高取藩の斥候が捕らえられ、那須信吾が尋問するが返答しなかったため斬首した。高取城を奇襲する計画であったが、すでに天誅組の行動が察知されていると知り、松本奎堂や藤本鉄石は攻撃を再検討すべきと主張するが、積極派の意見に押された主将中山忠光は予定通りの進軍を決めた。 26日払暁、狭い小道を進軍してきた天誅組に対して、高取藩兵は鳥ケ峰付近において大砲と鉄砲で攻撃を開始した。天誅組は進軍にあたって十分な偵察も出さず、街道を2列縦隊で進軍していたところ、伏兵の奇襲を受ける形となったのである。高取藩の大砲も照準が狂っており命中することはなかったが、その砲声は天誅組を恐怖させるに十分な効果があった。烏合の衆である天誅組はたちまち大混乱に陥り潰走したが、忠光にこれをまとめる能力はなかった。水郡善之祐らの一隊が重坂峠に留まり追撃に備えたが、高取藩兵は追撃せず、城下の防備を固めた。高取藩側に死者は無く、2名が軽傷を負ったのみで、後に松平容保から感状を受けている。 天誅組本隊は潰走して五條まで退却する。その途中、別働隊を率いていた吉村が合流、不甲斐ない敗戦を知った吉村は激昂して忠光に詰め寄った。吉村は直ちに決死隊を編成して夜襲を試みることとし、26日夜、24名の決死隊は夜陰に乗じて高取城下に忍び寄った。城下に放火し、混乱の中で城内に討ち入ろうという計画であったが、途中で高取藩の斥候に遭遇し交戦、味方の誤射により吉村が重傷を負ってしまう。決死隊はなすところなく五條に退却したが、本隊は既に天の辻まで退却していた。吉村らもそれを追って天の辻に到着するが、本隊は更に長殿村まで退却した後だった。 長殿村に退却した忠光は、藤本の提言に基づき、紀州新宮に出て、海路で移動し、四国、九州で募兵して再起を図ることを提案するが、天の辻にいた吉村や水郡はこれに従わず、忠光の本隊と別行動を取って抗戦することとなった。吉村ら別働隊は天の辻付近で追討軍を迎え撃つこととし、周辺に防塁を築くなどして防戦準備を整えた。 また、この時点で十津川郷士の多くが帰郷し、松本と共に三河刈谷藩から参加していた伊藤三弥(謙吉)や、伴林光平に伴っていた市川精一郎のように脱走するものもあった。伊藤の脱走は天誅組の脆弱さを示す一例としてしばしば引用される。
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