マサチューセッツ湾植民地とニューハンプシャー植民地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:25 UTC 版)
「リチャード・クート (初代ベロモント伯)」の記事における「マサチューセッツ湾植民地とニューハンプシャー植民地」の解説
1699年5月、クートは船でボストンに向かった。1699年と1700年にニューイングランドで14か月間を過ごしたが、そのうちニューハンプシャー植民地では数週間に過ぎず、残りはマサチューセッツで過ごした。マサチューセッツで、クートは丁重に待遇されたが、王室の政策を実行しようとしたことで、ニューヨークの場合と同様に問題が発生した。植民地議会から給与の支払いを拒否された。ただし、受け取った1,000ポンドの「贈り物」は通常の植民地総督に与えられる額より多かった。議会はまた、植民地の裁判所によって下された司法判断について、ロンドンに控訴するのを制限するよう繰り返し試みていた。クートは植民地議会で成立した法をロンドンの貿易省に送り承認を求めており、そうするよう要求されていたからだった。これらの法は、王室の特権を制限しようという条項があったために、何度も却下された。政治的には副総督のウィリアム・ストートンとも対立した。ストートンはマサチューセッツ生まれのジョセフ・ダドリーと同盟しており、ダドリーはジェイコブ・ライスラーの裁判を差配した人物だった。クートはそれに対するに人民派指導者エリシャ・クック・シニアと相談するようになった。 ボストンに到着してから間もなく、クートはウィリアム・キッドの逮捕を手配した。キッドが海賊に身を落としているという噂が植民地に届いており、キッドの船に投資したクートやその他著名人はキッドを重荷に感じるようになっていた。1698年11月、海軍本部が植民地総督の全てにキッドを拘束する命令を発した。1699年6月、キッドのエージェントからキッドが地域に居ることを知らされたクートは、キッドに寛大な処置を約束する伝言を送った。キッドはボストンに出てくると返信を送り、その宝物の幾らかをクート夫人への贈り物として贈って来たが、夫人はその受け取りを拒んだ。7月3日にキッドがボストンに到着すると、クートはキッドにその旅の記録を提出するよう要求し、キッドはそれについて暫く議論していた後、7月6日に提出することに同意した。キッドがその約束を果たさなかったときに、クートはキッドの逮捕令状を発行した。その日の中頃にキッドがクートに会いにくる道すがらに逮捕が行われた。その後キッドは宝物の隠し場所と捕まえた船を交渉材料として、釈放の交渉をしようとした。キッドの宝物の一部は回収されたが、キッドは釈放されず、1700年4月にはロンドンに送られ、そこで裁判に掛けられ、、有罪となり、絞首刑に処された。クートはキッドとの対話を行う時に比較的秘密裏に行ったのとは対照的に、他の潜在的に問題のある商人や海賊との交渉は慎重だった。違法行為を見逃す代償として5,000ポンドを提案されていたにも拘わらずのことだった。 フロンティアでの安全確保と、製材業の問題がニューイングランドにおけるクートの短期間の管理の多くを占めた。ニューイングランドはイギリス海軍の艦船にとってマストを供給する重要な産地と見られており、貿易省や海軍本部は王室の利益のために適当な樹木を保存しておこうとした。マサチューセッツとニューハンプシャーの両植民地で、固定された土地に対する反対に遭い、木材業者は彼らの土地に測量士が侵入してくることに不満であり、払い下げられていない土地から材木を伐採することに干渉され、王室のために保存しておくことに不満であると、反対にあった。 ニューハンプシャーでは、地元の土地所有者達と、サミュエル・アレンの間に続いていた論争が木材の論争に勝っていた。アレンは植民地の設立者ジョン・メイソンの相続者の土地所有権を取得したロンドンの商人であり、土地所有権達に対抗して土地の権利を追及していた。1692年に植民地総督に任命されていたアレンがこの件に関して直接利益を得るために植民地に来たのは1698年になってからだった。1699年7月、8月に、クートがニューハンプシャーを訪れていた短い期間に、アレンはクートを自分の側につけようとした。アレンはクートの息子の結婚相手として自分の娘を提案したが、クートが断った.。
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