統一された反対
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 08:52 UTC 版)
「ジョナサン・ベルチャー」の記事における「統一された反対」の解説
1736年までにベルチャーの多くの政敵の代表が、ロンドンで統一された反対会派に纏まるようになった。ウィリアム・シャーリーはより魅力的な地位を求めており、その妻をロンドンに送って彼のためにロビー活動を行わせ、裕福な製材業貴族のサミュエル・ウォルドと共通の利害関係を作った。ウォルドはイギリス海軍に対する供給契約が、ベルチャーが違法な伐採を支持したことで損害を受けていた。デイビッド・ダンバーが1737年に副総督を辞任し、ロンドンに行って、木材伐採に関する文書を提出した。これらの力がベルチャー追い落としの運動でソムリンソンに結集し、マサチューセッツではシャーリーを、ニューハンプシャーではベニング・ウェントワースを推すことになった。 1739年、ロンドンの政界とマサチューセッツにおける通貨の危機で、事態はさらに複雑になった。ベルチャーは1741年までにマサチューセッツの大量の紙幣を回収するよう命令されており、これを遂行するための法案が貿易委員会で否決され、植民地で競合する銀行の提案が導入されることになった。土地所有者で構成される一派が土地担保銀行を提案し、一方商人達は銀を兌換とする紙幣の発行を行う銀行を提案した。これらの提案はマサチューセッツの政界を二極化させ、ベルチャーはどちらの側も支持者と疎遠になることを恐れて味方することができなかった。その代りにロンドンで受け入れられる紙幣回収計画を議会に通すよう脅そうとしたが失敗した。1740年の選挙では、土地担保銀行の支持者の派閥が勝利し、銀行は紙幣の発行を始めた。土地担保銀行に反対する商人達はロンドンで議会の救済を求めて広くロビー活動を始めた。この動きは1741年に実現し、1720年のバブル法を延長する議案が通り、植民地で未承認の会社を認めないことになった。これはジョン・ソムリンソンがけしかけたと考えられる。 この危機がマサチューセッツで持ち上がったとき、上昇中のニューカッスル公が首相のロバート・ウォルポールに圧力を加えて、1739年にはスペインに宣戦布告させることに成功した(ジェンキンスの耳の戦争)。この戦争の戦略の一部はスペインの保持する西インド諸島に対する作戦を支援するために、植民地で部隊を立ち上げることだった。約400名の部隊を立ち上げることを期待されたベルチャーは、1,000名を集めると約束したが、マサチューセッツでは約500名を集められただけであり、ニューハンプシャーで約束していた100名ですら無理だった。このことは、給与や物資の保証が無いままにカリブ海まで動く余分な中隊を出すことに躊躇したことが一部の原因だった。ベルチャーも金融の問題を追及しており、立ち上げられる民兵隊の金を出すために紙幣を発行する法案には拒否権を使った。 ベルチャーを解任した真の理由については、植民地、イギリス本国、および政治的な要素が多く絡んでいたために、歴史学者の興味を何度も喚起する問題となってきた。これら分析の中で2つの大きな主題は、ベルチャーが地元で多くの敵を作ったことと、イギリス本国の政治が最後はベルチャーの交代を求めたという概念である。1739年の問題以前、ベルチャーを追い落とすための動きはほとんど失敗していた。ベルチャー自身はその年に、「私が関わっている戦争は、9年前のものとほとんど同じやり方で行われている」と言っていた。歴史家のスティーブン・フォスターは、当時ニューカッスル公程に強力な人物が、植民地の政治の問題を仲裁するよりも重い問題を扱っていたと言っている。しかしこの場合、イギリス本国と植民地の検討課題は、ニューカッスル公の提案する西インド諸島遠征に、マサチューセッツがそれなりの軍隊を供給する必要性について意見が一致していたはずだった。1740年4月、ニューカッスル公はシャーリーに、ベルチャーの政治的困難さに照らして、総督ができた以上の部隊を立ち挙げさせる機会を与えた。その後シャーリーが主にマサチューセッツ以外で徴兵に携わり(ベルチャーは行われていることを理解して協力を拒んでいた)、ベルチャーが銀行危機に捉われている間に、自分の成功を伝える文書をニューカッスル公に送った。ニューカッスル公は貿易委員会の委員長であり、ベルチャーの反対者であると分かっていたマーティン・ブレイデンにこの問題を渡した。貿易委員会は証拠の重さに照らしてベルチャーを交代させる必要があると判断した。1741年4月、枢密院がウィリアム・シャーリーをマサチューセッツ植民地総督とし、ベニング・ウェントワースをニューハンプシャー植民地総督とする辞令を承認し、続く6月に発行された。
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